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2020年8月14日金曜日

生きる価値と貢献について

久しぶりに意見を書こうと思ってようやく開けて少しだけ書いている。

数ヶ月ほど私なりに本気で考え続けていたものの言語化である。私はこれを結論づけられた自分は一仕事終えられたのではないかというくらいに成長を感じる。

まず第一に自分の生きる価値について考えていた。哲学者は生きる価値について答えを出すかと思い、安易なのでショウペンハウエル先生の「自殺について」やら「孤独と人生」やらを読んでいた。ショウペンハウエル先生の著者を読んでから貢献などを行うほどの価値があれば生きていていいだろうと考えた。

そこで自分ができる貢献について考えていた。その中で色んな情景が出てきて、誰かに対して自分は貢献をせずに迷惑しかかけていないことに気づいた。何に対しても貢献ができず迷惑をかける自分に対して、生きる価値を喪失してると判断していた。そのことが恥ずかしくて心から自殺をしたかった。どこで死ぬと人に迷惑をかけないかと悩み続けていた。

ただ、調べてみるとどこで死んでも誰かに迷惑をかけることがわかり、死ぬことに対して悩んでいた。誰かに迷惑をかけていることを恥じて死にたいのに、死ぬと迷惑をかけるのは二重に恥だと思えて困り果てた。希死念慮の延長線上にあった自殺願望を抱えて、無限に自分の内にある精神と会話し続けていた。それはここ数ヶ月の話である。

この話の結論としては国は自分に生きる価値を感じでいるだろうということである。というのも、年金や税金をこれから先払うのは今のところは若い私であるし、そういうことを思うと今死ぬと国の税金的な意味では生きててくれと思っている人間がこの世に一ミリはいるだろうということでギリギリ生きていようと思った。それでもまだ貢献ができないと思うのであれば、献血で血を分ければ失血した誰かを助けられる可能性もあると思う。生きる価値について考え始めてから献血もしているが、生きてていいように感じられるので、献血は私を生かしてくれている要因の一つである。

この最初のネガティブな話は前座であり、もう少し貢献についての話をしていこうと思う。

先日、いろんな人たちがいろんな結果を残したり、自分が憧れるようなものに対してアレソレしてたりしているのを見ていた。純粋に自分はそれに対して素晴らしいと思う心もあったのだけど、それ以上に焦りが生まれていた。いつもこいつ焦ってんなって感じだけど。

「周りは先に進んでいる、自分は立ち止まってるだけに過ぎないのではないか」と焦燥感で生きた心地が皆無であったのだ。

(そういう進んでる人たちに素直に応援とかできてないことも、自分自身が本当に人望がない人間であると思うところもあった。)

自分はそうやって行動してる人たちに対して何かを提供できているわけでもないし、特に彼らに協力のできる人間ではないなと思うと自分の無力さに対して嘆くところではあったが、最近はそうした貢献をしていないと嘆く自分に対して傲慢であると思うようにもなった。

というのも、貢献とは自分が求めるものではなくて自分が誰かに恥じない生き方をしていれば自然と湧き出すものである…。自分は修行中の身であるため、誰かに迷惑をかけることはあれど、誰かに対して貢献できていないと痛感していた。

事実として他者に対して貢献できていない部分は否定できないし、何かに対しての貢献について死ぬ気で考えてその身の振り方についてかなり考え続けていたお盆であった。そもそも修行中に貢献なんて出来るのであれば、私は修行をする意味がない。

そこでの今の段階では「自分が何かを提供できることに対しての貢献とは、誰かから求められたものでしかない」という考えが結論になった。

そう、誰かに対して貢献することは生きる価値にはなるだろうけれど、貢献は自分がしたいと思って湧き出るものではない。そうやって貢献したいとやろうとするのはなんというか気持ちの押し付けにすぎないのだ。

焦って貢献したいと思うのは自分の無力を露骨に出しているように感じるし、本当に貢献のできる人はできることに対して愚直に取り組む姿勢を貫くだろう。これは私の負の要素や恥ずかしいものと向き合い続けた結果一つの光として生まれた考えであるけれど、合っていると言えるかは分からないがそれほど間違ってはいないと思う。

自分は特にsechack365においては「貢献がしたい」という願望を持ってやっていたように思う。しかし、貢献とは誰かが何かを求めているときに自分の持っているものを差し出すことである。自分から貢献を探すのは自分の持ってないものでアレソレしようとしている感じがして、それって違うような気がしてきた。

今年24歳でこれに気づくのは正直に遅くないかと、自分でも少々恥ずかしいところがある。

わたしの神様にして推しである天ヶ瀬冬馬くんはよく「うまく行かねえ時はプロデューサーがいるだけで心強いんだ」と発するのであるが、それは普段のプロデューサーの行動が天ヶ瀬冬馬くんに対して信頼をしているからこそ出た言葉であろう。信頼をしていないものに対して背中を預けることはできないし、貢献って信頼から生まれるものなのではないかと考え続けていた。

しかし、そう考えると自分の貢献はまだまだ志半ばで本当に自分以外のもののおかげで成り立っていて、自分は何もできておらず貢献を語るに及ばない人間であるように感じる次第である。

自分の行動を恥じて貢献などいう前に「実直に締め切りを守ることだけをした方がいいんじゃないかな?」と冷静になった。こう書いていてなんだかとても恥ずかしい。

信用を得てない内からその先のことに対して心配をするのはなんだか「応用ばかりやって基礎をこなすつもりのない人」の発言であった。基礎は一番大切なものである。基礎をやる前に応用はできない。