前振りはやめます。このゴールデンウィークは表現について悩みぬいていました。
まず、小説を書いていた時は攻撃性を減らすこと、伝えたいことだけを鮮明にすることを考えていました。
発表し終えたLTでハニーポットについて話す前も、ログと脆弱性の発表絡められないかなと考えて、いろいろと模索していました。
次のLTでは相手の視点、求めているであろう内容をめちゃくちゃ吟味したものを作ろうと模索しています。
SNSで意見を表現するときは自分のことを伝えられるようにしようとしていましたが、無自覚ながら攻撃性の高い言葉を書いていたことは否めないです。
表現に対して、なんだか余裕を感じられません。以前から表現に自信があるような人間ではないのですが(それこそ美しくない攻撃性の塊みたいな言葉を扱ってしまう)、さらによろしくない表現をしている自覚をしていて三歩進んで二歩下がる人間だったのに、三歩進んで五歩下がっていませんかと自分に問うことが多くなっています。
引きこもりってきついじゃないですか。いやその、引きこもってゲームも楽しいですし、本をずっと部屋で読むのもいいんですけれど、個人的には歩かないと頭が冴えない感じがして、体がなまるというか、もやもやする感覚があるのです。引きこもるときにお供になるのは大体SNSの印象があるのですが、今はどのSNSや本などを見ていても攻撃性の強い言論が目立っているように感じてしまいます。もちろん、これは個人的にはそう解釈しているだけであって、偏見に満ち溢れた考えである可能性は否定できません。話を戻すのですが、攻撃性が強い言論も二つの種類があって片方の言論が自分に合えばそれを支持し、そうでなければ違う方の言論を攻撃するような世界観が構築されているように見えます。そう主観で見てしまうので、言葉を見ることが本当にキッツイなとか思っていました。
twitterから逃げることにしました。
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表現に悩みながら宮沢和史氏の公式ページにVOICEが投稿されたので聞いたのです(宮沢和史氏は地声が低いのがさらに良いポイント。地声低い人の色気最高よな…)。
公式ページのVOICEで彼が「遠くに行くことだけが 旅といえるのでしょうか」と表現していました。
旅の定義を調べてみると、デジタル大辞林には「住んでいる所を離れて、よその土地を訪ねること。」と表記されているため、遠くに行くことが旅であるということは否めないと思います。しかし、彼が伝えたいのはそうではなくて、こうして新型コロナウイルスで遠くへ行くことで誰かを傷つけたり、命を落とすきっかけを作ることへの警告や、家でも豊かな文化を触れることができるのですよと伝えているのではないでしょうか。
(遠く行くことが旅なのかと問題提起しただけであり、新型コロナ関係の問題提起ではないと本人からいわれるとそれまでなんだけどこの論)
家にいるときに文化を学ぶことができたら疑似的でも旅に出ているようになるのではないか。旅はその土地の文化を肌で感じるために行うものだから。
(という、隠れたメッセージを感じたのでした。)
例えば沖縄に行きたかった人がいたとして、この医療崩壊の可能性が高いとされる沖縄に今行くことはあまりよろしくない(沖縄の方がなくなるかもしれないという意味で)と私の立場だと考えます。沖縄を知りたかったとしたら手段が家でもあるのです。
例えば
- 琉球の歴史を徹底的にたたきこんでから沖縄へ行く
- 琉球音楽の完全理解者()になってから沖縄へ行く
- 沖縄の方言、独特な言葉遣いを理解してから沖縄へ行く
- 自分で沖縄の料理を作れるようになってから沖縄へ行く
- 唯一の本土上陸戦である沖縄戦の歴史を学んでから沖縄へ行く
- 琉球ガラスについてデザイン性も含めて知ってから沖縄へ行く
適当に考えてみるだけでもこれだけ思いつくのです。琉球音楽の完全理解者って何だろ…
個人的にその地域に行く前に軽く歴史を学んでから行くと文化がちょっとだけ理解しやすくなることがわかっているので、この機会で沖縄に行けなくて嫌な思いをしている人は、コロナが落ち着くまで徹底的に沖縄文化マスターになるくらいの熱意を家で調べ物をして身に着けると、次に沖縄に行くときに思いっきり楽しめるんじゃないかと思うのです。それはわたしなりの宮沢和史氏の伝えたい「遠くに行くことだけが 旅と言えるのでしょうか」という言葉の意味の解釈です。今我慢すれば、今現在コロナで店が閉鎖された沖縄に行くよりも早く沖縄に行きやすくなる可能性が高いと思うのです。
だからと言って、我々は沖縄県のための自警団になる必要性はありません。歴史を慮ると自警団を行えば行うほど、(表面ではなく裏の意味で)治安は悪化する一途をたどると考えます。今のこの状態でも沖縄や田舎に行きたい人を自警団をすることで止めることができるのであれば、もうすでに沖縄があんなに慌てる必要はないのです。残念ながら言葉が届かない領域は存在します。見守るしかないと思います。否定をする言論を投げてもその言論の攻撃力であらぬ方向にダメージを起こすだけだったりしそうだし…
不安をあおる言論に意味はあるのだろうか。不安をあおるだけではなくて、根拠が明確でなければ、その言論は無駄に攻撃性が高いだけに過ぎないのではないかと考えることが多いです。自戒の意味を込めて。
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