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2020年6月6日土曜日

別れ話と恋愛について

長引くかと思っていた病院が案外早く終わったため、帰りつつ歩きながらよい夜景のデートスポットになりそうな場所を見つけた。ほくほくと夜景を楽しみながらTwitterのTLで加速していた恋愛についての思考をしていたら、目の前でお若いカップルが別れ話を20分くらい繰り広げ始めた。不慮の事故である。

綺麗な夜景の図

別れを切り出す男の意見を聞く限りであるが、「おしとやかで可愛らしいかと思ったら、理想と全然違うため対象と別れたい」らしい。そこは理想と違うため別れたい気持ちがわからなくもないし自由だと思うが、どうしても微妙なものを見る気持ちになってしまう。存在を認知されず立ち上がることすらも遠慮している陰キャは「なんだかな」とまずは思った。

そもそも、こうした「相手に対して自分の理想を押し付ける行為」は自己愛でしかない。だからこそこの男性は対象に対して自己愛を押し付けながらも、この自己愛が報われるのは難しいと感じて別れたいと思っているのだろう。合理的な判断であると思う。おしとやかで可愛らしい人は甲斐性のある人と付き合うような印象を受けるため、理想をただ押し付ける彼にそうした甲斐性があるのかは疑問であるが、是非ともその理想をもぎ取って欲しいと観察者は思う。それに対して私は関係がないので。

この別れ話により「自己愛を押し付ける行為で双方が合意した結果付き合うと、自己愛の押し付けにより別れ話が生まれる」という好意を抱く上での個人的仮説が検証されていき、それが真になっている感じがしていった。ただこれは仮説検証のためのソースとしては1つのデータなだけだし、その人たちの人生をこの時の別れ話の言葉以外は何も知らないため、絶対的に正しいとは言えない。

もしかしたらハードルは高いかもしれないけれど、私は好きな相手のそのままを好きになれる関係性になると幸せになれるのではないかと思う。だから本当は妥協した結果の人と自己愛を押し付け合うことで理想に持っていくような付き合いより、自分を変えて理想的な相手と付き合う方が良いのではないかと思える。

例えば、その人に対して好きなものを 自分と一緒に行ってもらう ことでプラスすることはできるかもしれない。だけど、その人の人間性から自分の気に入らないものをマイナスにすることは難しいと思う。その行い自体はその人を認めているのではなくて、自己愛を押し付けてるだけに感じてしまう。道徳として間違っていることであれば指摘した方がその人のためになるし良いけれど、それ以外の個性の部分はその人の個性であるので、うまく共存をした方がその人との人付き合いとしてはよいものなのではないだろうか。

そういうものではないかと思うと、自分にとっては難しいものに感じてしまう。

対話ができたら、双方ともに付き合う上では1番幸せなんじゃないかとは思うが、この幸せか否かについては私の感性でしかない。対話について色々と考えてみるとハードルというか理想が高いのかもしれないしね…

今でも一応、人として好きだと思うことはあるけれど、私の感性でその人を好きだとして、自分がこの人に対して好意を抱かれるような人間ではないだろうと考えることがある。距離を近づけるために自己愛を押し付けた方が有利なこともあるが、それが果たして相手のためになるのか。

そうして考えるにつれて、恋愛はさらに難しく感じられる。

そうして別れ話をしていたカップルは私の近くから離れていった。私はカップルが去ったことで安心し、この恋愛に対しての思考を終えてから駅に向かっていたところ、二組のキスをしてる別れ話とは別のカップルのお邪魔をしてしまった(完)

(何だかとてもいたたまれなくて、人のいない影のところから帰ろうと思ったら、みんなそういうところでキスしてるんだもん!)