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2020年6月3日水曜日

砂上の楼閣

私はかつて努力のやり方がわからなかった。高校時代は努力をしても認められず、努力が認められている高校の同級生たちを妬んでいた。彼らはその努力を認められていることを当たり前のように得意げで、私も努力しているのにどこが違うのかと嫉妬し続けていた。

実力がないと素直に認めることが苦しかったこともある。

高校生の当時は今よりも努力家で、努力をする時間も、熱意も今の10倍くらいはあったと思う。それなのに認められないという事実が、余りにも悔しくて、自分は努力をしても努力を認められずまた結果も出ないことに対して憤りすら感じているほどであった。

しかし、その気持ちに対して表現をする力もなかったから、ただ怒りを持つか、泣くことしかできなかった。イメージとして頭に浮かぶけれど、それを言葉で表現することができない葛藤もあった。それがさらに努力と自分に対してのハードルを上げていった。

そんな私は大学一年生の時に効率の良い努力の方法をすごく優秀な研究者から教えてもらった。その人曰く、「対外に認められさえすれば表面的な努力でも、他者は努力をした人であると認めてくる」という話であった。努力の評価軸を完全に他者に合わせる努力の方法がコスパが最も良いということである。

私は彼の発言を信じて、その方法を取り入れてみた。そうすると面白いことに彼の言ったことは真であった。

初めにそのやり方が認められたとき、世界ががらりと変わった。そして、自分のこの認識に対しての恐怖が凄くなる。努力も実力も認められない状況よりも深刻で、努力していなくても実力もなくても認められてしまう世界に落ちていたのである。

(実力は無なので、4年間ずっと関わり続けていたある教授から「○○さんは何もできないけど運はいいよね」と言われたとき、彼は自分をよく見ているなと安堵した。ちなみに彼は色んな技術的なものを真摯に教えてくれた人であるため、知らずに発言しているわけではない。)

自分は何もできていなくて、変わらないのに対外に認められてしまうと、自分は何も変わっていないのに周りの目が変わってしまう。その時に踏み込んではいけない領域に踏み込んでしまったのではないかと恐怖した。しかし、それに気づいたときには手遅れだった。

手遅れであると認められた瞬間から、同じ領域の人間と思われる人たちのように努力をしようと考え、そうして実践し続けていた。私は怠惰であるからこそ、努力をする人間に対しての敬意と憧れの念が強かったので、今考えると彼らと会話ができるネタが欲しかったのだと思う。そして、努力の方法を少しだけ、アドバイスをしてくれた研究者とは違う理解ができるようになってきた。

「対外的に認められるものを生み出すための過程の段階が世間一般で言うところの努力なのではないか。そこを皆が認めているのだろう」

例えば、実力に無相応なものを申し込んで落ちても落ちても苦しくない。理不尽にはもちろん怒るけど、落ちたことには怒らない。実力不足だというのは痛感していたから、落ちてもそれはそれでしかなかった。そう思えてさらに読書などを行い修養するようにしていく。そうして気づいたら某に通り、それから気づいたら修了していたし、そうしたらさらに周りの態度が努力をした人間であると認めてくるようになっている。

私はずっと怠惰で周りに流されて努力をしているだけに過ぎないと思えるため、何が努力をしている人間であるかと恐ろしく感じるばかりであった。どうしても自分は息を吸うように本を読むし、気になることは息を吸うように活動することができるが、それを努力とは認められないし、何なら趣味である。

「努力とは何か」

努力とは、実力がついてからこそ努力を認めてもよいのではないかと思えてしまう(他人であればもちろん努力した過程を評価したいし、そうであると認めるけれど)。しかし現状の自分はいつもの環境の周りの期待に対して実力が追い付いていない。努力をしても努力は努力であるし、実力のない状態の努力である私の努力を「努力」と認めてしまうと、そこで成長を終えてしまいそうな気がしてそれがどうしても怖い。

元々怠惰な人間である私は、今も今までも努力をしたくないと思っていたし、努力をしないためのコスパの好い選択肢が対外活動であったはずなのである。ただ、期待をされてしまうとそこから落とすことが怖い。結局今の努力って、他者からの目を気にしている自分が、怠惰で暮らすために行っている努力に過ぎないのではないかと思えてしまった。

こんな虚無な人間にやさしくしてくれる人が多くて、それがうれしいけれど同時に申し訳ない。

そうして自分の実力もないのに外堀が埋められてしまい、「努力」を認められている自分のその持っていない「実力」のいる場所が、どうも砂上の楼閣にそびえたつ玉座か何かに見える。いつどこでこの砂上の楼閣は崩れ去り、人々が自分に対して失望し、離れていくかと恐怖する。寂しがりであるから余計そうなのだろう。

期待、実力、努力がイコールになるようにせめて努力をしようと、少しだけ努力を行いながら生きているが、今も自分の恵まれた環境に対してありがたさと申し訳なさを抱えながら生きている。いつか…せめて5年以内には肩を並べてもよいと思えるくらいには実力をつけて、こうした劣等感とお別れできるようにしたいと思う。