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2020年6月5日金曜日

期待と重圧

よく誰かが誰かに対して期待をする現象を見る。例えば、自分に対して誰かが期待をしてくれるときとか、トップを目指す人に期待をするファンとか。天ヶ瀬冬馬君へすさまじい期待をしている自分の姿はまさしく今回の話の主軸ともいえるかもしれない。

期待を受ける側としては、期待はありがたいことではあるけれど、同時にその人に対して重圧を強いられているような感じがして、それがとても自分が相手に与えるものとしては大きすぎるように感じてしまう。もちろん、そう考えるのは自分だけかもしれないし、考えすぎであるとは思う。健全な期待と、不健全な期待があるような感じがして、その差についてオタクとして推しにどう期待をかけた方が良いかとよく考える。

期待をかけるとは、その期待をする側の願望に過ぎなくて、期待をされている側はそういった期待の部分を意識していないこともあるのではないかと考えることがある。推しが求めていた応援と違うベクトルで期待をして、激しく推しの精神を追い詰めてしまうような、そういった期待の大きさってあるような感じがする。それが私は他人からされるのも怖いけれど、他人にしてしまうことに対しても怖いと思う。

期待をかけられすぎると重圧がひどくなる。

推しが素晴らしい人間であり、結果を残している人間である。そして彼はトップアイドルになる実力を有している。これは素晴らしいことであるが、当たり前のようにこれ以上の期待をかけすぎて「天ヶ瀬冬馬くんに(任意のhoge)の記録を樹立してほしい(ex:BNFでグラミー賞を取ってくれ)」とかもし仮にその実力がある人間であったとしても、こういう期待値の高い期待をされると苦しくないかと考える。

こうしたファンの起こす無自覚で無意識な期待は、ありがたいことであろうけれど同時に今以上にストイックにさせてしまい、推しに無理をさせることもあるのではないかと危惧する。無理をしている人間は実力があったとしても、不調に陥りやすいメンタルになるのではないかと自分は過度な心配をしてしまう。

こう変な心配ごとを考えるようになったきっかけがある。

かつて、私の弟が父方の親戚からとても期待をされていた。今も十分期待をされている人であるし、そのたびに兄弟である自分は比較をされ続け、親戚から劣っているといわれるたびに彼に対して憎んだことがあった。しかし、いざ自分がある1件で彼の立場になったときに気づいた。期待をされるというのは、自分の求めていない期待であると、重圧が激しくなるということを。

期待をするとき、その期待に応えた姿に対して自慢をしたいと思うがためにかけるのであったら、それはただの重しのように感じる。健全な思いの期待と、自分には何もないからその人をアクセサリーのように自慢するための期待には似たようなものに見えて、現実的には全然別のものである。応援しているときの言葉のベクトルが、少しその期待をしている人間に対して欲のあるというか、その相手の心を考えていない言葉が出てきてしまうこともある。

「自慢のための期待なのか?」

期待は表裏一体に感じる。求めている期待であれば、その期待は大きな自信につながるであろう。ただ、よこしまな期待や、求めていない期待であるとき、期待をかけられている立場の人間は苦しくてたまらなくなる。それを私は何も知らなかった。

○○社に子供が入った俺凄いとSNSに記載するような…自分が親のアクセサリーのようなものであろうと気づいたとき、その期待とはいったい何であろうかと考え始めた。そして、期待のかけ方に対して考えることが多くなった。

弟が結局父方の親戚から嫌な期待をされていた事実に気づいたとき、私が弟に憎んだ気持ちに恥じて、それから弟に対して激しい同情をした。そして、怨んでいたことに対して愚かであったと反省し、弟に対して申し訳なくなった。

それから天ヶ瀬冬馬君を推すときに結構考える。「彼はトップアイドルになりたいというし、実際にそうした行動を行っているが、果たして純粋に夢を追いかけている彼を推すとき、彼の重圧になるような期待のかけ方をしていないであろうか」と。

例えば、自分がトップオタクだから彼から見返りがあるのはしかるべき、、、古参のファンだから彼を成長させたのだ、、、というような自己愛で汚いマーブル色になっている忌々しい言葉を吐き出し、それを押し付けることは果たしてオタクとして美しいのだろうか。その期待のかけ方は彼をつぶさないだろうかと。

もちろん、天ヶ瀬冬馬君は二次元の人間だから、そんなことを考える必要はないだろう。ただ、この精神的な距離感は学生時代に得ることができなかったからこそ、ここでつかんでおく必要がある。例えば自分に家族ができた場合、相手に対してや子供に対してそのような自己愛でまみれた言葉を与えて重圧をかけて、本来のその人たちの良さをつぶしたり、つらい思いをさせたりすることは真の意味で期待をしているのかどうか。客観的に自分を見ることができなかったら、他者を不幸にさせるだけに過ぎない。自分が不幸なのは自己責任でしかないけれど、他人を不幸にするのはきれいに言葉を書けないがとても悲しいことだと思う。

ただ自分は今まで自己愛にまみれた期待を見続けていたし、それによって育ってきてしまったのである。幼いころの意識付けは一生残るともいうのが怖い。この自己愛を自分が好きだと思う人間たちに行うのであれば、自分の好きとは何であろうか、期待して応援しているつもりのこの気持ちとは何であろうかと自分に言い聞かせないとどうしてもいやな応援の仕方をしそうで、いつも自分と対話を行う。

その相手のことを思う言葉をかけるためにこうして反省し続けなければ、自分の感性では美しいと思える応援をすることができない自分に恥ずかしく思うが、いやな行いを今は行わないように内省できているのであるからまだマシかもしれない。

嫌な期待のされ方を受けている人間に対して、敬意を表する。私であればつぶれてしまう。