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2020年6月27日土曜日

本を勧める意味

私はある程度親しくなった人には自分の好きな本を教える傾向にある。おそらくある程度親しい人には本をダイレクトマーケティングのごとく渡したり、お勧めを教えたりしたと思う。それには色々と理由があり、一応自分なりのささやかな思いやりの中で生まれたものである。

お誕生日とかおめでたいとか何かにつけて本を送る。基本的に贈る人それぞれに本の内容を変えるようにしている。合う古典はそれぞれ違うと思うので。勿論親しくない人とか特に思い入れのない人には贈るつもりはないし、教えることもない。ブログなどには書いていることが多いけれど、その人に合わせた内容のおすすめはなく話すようになると思う。

こうして本を提示するのには理由がある。

私には同性の友人と異性の友人がいる。特に異性の友人の場合、今後その異性の友人に恋人ができたり、結婚したりすることがあると思うが、その時に僕がその友人の味方を表明することは難しい。基本的に恋人のできている異性の友人とは疎遠にするようにしている。その恋人さんに不用意なプレッシャーのようなものを与えたくないというのが理由である。

苦しいときに寄りそう役目はお相手の役割であり、恋人ではない私は完全な部外者として遠くから見守る以外のことはできない。それこそお相手さんに対して申し訳ないことをしているようであるし、浮気願望?不倫願望?みたいなあらぬ方向に発展しても困るし。

ただ、心に寄りそうができるのは相手ができればお相手の役割であると思うが、僕が今の地点で本をお勧めするのは二つあげられる。


  1. 本は裏切らない
  2. 言葉は心に残ってさえいれば本当に苦しいときに自分じゃなくてもその人に寄り添うことができる。

1の場合、人の性格はあいまいであり時が経てば変わり果てることが多いけれど、本は色あせないし恒久的に変わらない。人間の性格などといういびつで一緒になっても正体の見えないものよりも、本は変わらずに味方であり続けてくれる。私の今の性格はこうであるが、私が数年後にどんな性格をしているのか想像がつかない。人を傷つけて傲慢になりいびりちらしているかもしれないし、今のままかもしれない。もしかしたら自殺が成功して死んでいるかもしれないのである。それこそ三か月後すらわからないのに数年後なんていう遠い未来の自分や周りが良かれという状況であるとは言い難い。今の自分が好きな人たちに未来でも安定した味方がいるように古典をお勧めする。味方を与えたい意味で。

2の場合はこれは純粋な願いである。本当に苦しくて、味方が誰もいない状態になることが人生にはめぐってくることもある。そのタイミングでは恋人すらも味方ではないかもしれない。勿論そんなことはない方が幸せであると思う。ただ、そうしたときに誰も味方でなくても、古典の言葉は味方になってくれることが多い。一人じゃないとか、自分だけじゃないと思える本や言葉があれば、未来のその人が救われるかもしれないと思っている。僕はそういったときにその人の味方ではない可能性がある。理由は色々とあるだろう。その人が既婚者であれば色んなことを考慮して味方ではないだろうし…

ただ、今こうしてお勧めをしたりダイレクトマーケティングを行っている人は、今の自分の中では本当に好きな人しかいない。今の自分はその人たちの味方でありたい。だから人生で味方になってくれる言葉をそれこそ頭の片隅程度にあったらうれしいという期待値ゼロの状態でも渡す。好きな人たちが未来につらいときに、今の自分の意志だけは味方でありたいと思う。未来の自分はそうじゃないとしても。

以上である。理由はかなり単純だが色々と考えているつもりである。自分は恐らく誰とも一緒になることはないだろう。既婚者なら既婚者と出会ってもまだ大丈夫そう?に見えるけど、未婚が既婚者に会うとなると絶望的であるため、縁が切れる人は多いと思っている。この世界に自分を一番よかれと思うような人が存在しているわけでもないだろうし…

古典は言葉を与えてくれる。言葉は思考をさせてくれるツールである。人生で困難に遭遇することは多いけれど、考えることができたら、助けてほしいときの支えになったり、伝えることを行ったりするための手段を作ることができると思う。僕はずっと友人の味方ではいられないと未来を危惧している。だからこそ、今のこのタイミングで本を差し出して今の自分の気持ちだけでも未来でその人の味方でありたいと思う。未来の自分が仮に味方ではなくても、今の自分は本を勧める人の味方であるからその人を支えられるもので自分の最大限のものを差し出したい。その願いだけに尽きる。