ページ一覧

ラベル 意見 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 意見 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2020年8月14日金曜日

生きる価値と貢献について

久しぶりに意見を書こうと思ってようやく開けて少しだけ書いている。

数ヶ月ほど私なりに本気で考え続けていたものの言語化である。私はこれを結論づけられた自分は一仕事終えられたのではないかというくらいに成長を感じる。

まず第一に自分の生きる価値について考えていた。哲学者は生きる価値について答えを出すかと思い、安易なのでショウペンハウエル先生の「自殺について」やら「孤独と人生」やらを読んでいた。ショウペンハウエル先生の著者を読んでから貢献などを行うほどの価値があれば生きていていいだろうと考えた。

そこで自分ができる貢献について考えていた。その中で色んな情景が出てきて、誰かに対して自分は貢献をせずに迷惑しかかけていないことに気づいた。何に対しても貢献ができず迷惑をかける自分に対して、生きる価値を喪失してると判断していた。そのことが恥ずかしくて心から自殺をしたかった。どこで死ぬと人に迷惑をかけないかと悩み続けていた。

ただ、調べてみるとどこで死んでも誰かに迷惑をかけることがわかり、死ぬことに対して悩んでいた。誰かに迷惑をかけていることを恥じて死にたいのに、死ぬと迷惑をかけるのは二重に恥だと思えて困り果てた。希死念慮の延長線上にあった自殺願望を抱えて、無限に自分の内にある精神と会話し続けていた。それはここ数ヶ月の話である。

この話の結論としては国は自分に生きる価値を感じでいるだろうということである。というのも、年金や税金をこれから先払うのは今のところは若い私であるし、そういうことを思うと今死ぬと国の税金的な意味では生きててくれと思っている人間がこの世に一ミリはいるだろうということでギリギリ生きていようと思った。それでもまだ貢献ができないと思うのであれば、献血で血を分ければ失血した誰かを助けられる可能性もあると思う。生きる価値について考え始めてから献血もしているが、生きてていいように感じられるので、献血は私を生かしてくれている要因の一つである。

この最初のネガティブな話は前座であり、もう少し貢献についての話をしていこうと思う。

先日、いろんな人たちがいろんな結果を残したり、自分が憧れるようなものに対してアレソレしてたりしているのを見ていた。純粋に自分はそれに対して素晴らしいと思う心もあったのだけど、それ以上に焦りが生まれていた。いつもこいつ焦ってんなって感じだけど。

「周りは先に進んでいる、自分は立ち止まってるだけに過ぎないのではないか」と焦燥感で生きた心地が皆無であったのだ。

(そういう進んでる人たちに素直に応援とかできてないことも、自分自身が本当に人望がない人間であると思うところもあった。)

自分はそうやって行動してる人たちに対して何かを提供できているわけでもないし、特に彼らに協力のできる人間ではないなと思うと自分の無力さに対して嘆くところではあったが、最近はそうした貢献をしていないと嘆く自分に対して傲慢であると思うようにもなった。

というのも、貢献とは自分が求めるものではなくて自分が誰かに恥じない生き方をしていれば自然と湧き出すものである…。自分は修行中の身であるため、誰かに迷惑をかけることはあれど、誰かに対して貢献できていないと痛感していた。

事実として他者に対して貢献できていない部分は否定できないし、何かに対しての貢献について死ぬ気で考えてその身の振り方についてかなり考え続けていたお盆であった。そもそも修行中に貢献なんて出来るのであれば、私は修行をする意味がない。

そこでの今の段階では「自分が何かを提供できることに対しての貢献とは、誰かから求められたものでしかない」という考えが結論になった。

そう、誰かに対して貢献することは生きる価値にはなるだろうけれど、貢献は自分がしたいと思って湧き出るものではない。そうやって貢献したいとやろうとするのはなんというか気持ちの押し付けにすぎないのだ。

焦って貢献したいと思うのは自分の無力を露骨に出しているように感じるし、本当に貢献のできる人はできることに対して愚直に取り組む姿勢を貫くだろう。これは私の負の要素や恥ずかしいものと向き合い続けた結果一つの光として生まれた考えであるけれど、合っていると言えるかは分からないがそれほど間違ってはいないと思う。

自分は特にsechack365においては「貢献がしたい」という願望を持ってやっていたように思う。しかし、貢献とは誰かが何かを求めているときに自分の持っているものを差し出すことである。自分から貢献を探すのは自分の持ってないものでアレソレしようとしている感じがして、それって違うような気がしてきた。

今年24歳でこれに気づくのは正直に遅くないかと、自分でも少々恥ずかしいところがある。

わたしの神様にして推しである天ヶ瀬冬馬くんはよく「うまく行かねえ時はプロデューサーがいるだけで心強いんだ」と発するのであるが、それは普段のプロデューサーの行動が天ヶ瀬冬馬くんに対して信頼をしているからこそ出た言葉であろう。信頼をしていないものに対して背中を預けることはできないし、貢献って信頼から生まれるものなのではないかと考え続けていた。

しかし、そう考えると自分の貢献はまだまだ志半ばで本当に自分以外のもののおかげで成り立っていて、自分は何もできておらず貢献を語るに及ばない人間であるように感じる次第である。

自分の行動を恥じて貢献などいう前に「実直に締め切りを守ることだけをした方がいいんじゃないかな?」と冷静になった。こう書いていてなんだかとても恥ずかしい。

信用を得てない内からその先のことに対して心配をするのはなんだか「応用ばかりやって基礎をこなすつもりのない人」の発言であった。基礎は一番大切なものである。基礎をやる前に応用はできない。

2020年7月8日水曜日

私の思う女性性と女性性についての疑問

あまりにもセンシティブすぎて、数週間前に記事はできていたけど、何度も何度も推敲した。それにしては内容が薄いかもしれない。

--------------------

女性の定義は「人間における雌」のことを指す。哺乳類として子宮をもち子供を身体に持てるのが女性。子供を産むことが「女性」であるのだとするのは、生物的な意味合いでは正しいのだと思う。それは事実だろう。しかし、自分の認識が女性であるが身体が男性として生まれてしまった人が、女性ではないということはないと思っている。自分は色んな出会いをして性別についての疑問がぬぐえないままここまで来ている。女性性とは何か。

Google先生から出てきた女性性の説明



今回、女性性=女性らしさと定義して書いていく。女性性=女性らしさ=女性の特徴ということか。

〜性=性質=本来備わっている特徴
らしさ=その物事の特徴
特徴=他と比べ目立つもの

結論から言えば、私が思う女性性は以下の2点である。


  1. 精神が女性であるならば女性
  2. 子供のできる身体!=女性


高校時代からわたしがわたしを「女性」とくくる行為が正しいのかわからない。そもそもわたしはただの生き物であるのに、人から見られるのは生き物以前に女性であるかと考えてしまう。もちろん生物学的には人間の雌であろう。私が女性らしいとされる服装をするとき、自分は女装をしているのだと思うくらいには女性らしさに対してよくわからない。そういった人間が書いたものである。この考えの私が絶対的に正しいとも思わないけど。


-以下長文お気持ち表明文-


私はかつて出会った「体は男性であるが女性の人」と会話していた時に、性自認について考え続けていたことがある。好きな人は男性で、こころは女性で、体は男性。最初は周りからホモであると思われていたが、彼女は異性として男性を好いていた。勿論、女性は恋愛対象外である。話してみれば身体以外は女性であり、言動が本当にかわいらしかった。その姿は恋する乙女そのものであったし、個人的には「特に差がない」としか思えなかった。あの時の自分は純粋に彼女より女性ではないと思っていた。

ただ、彼女のような人が体を子供が産めるか否か以外の部分を女性にしたところで、子供が産めないというだけで「おかま」、「ニューハーフ」と呼ぶ風潮もある。女性と呼ぶのではなくニューハーフ。嘲笑しながらおかまという風潮。わたしからこれについて具体的なエピソードを書くつもりはない。今考えるとこの風潮は残酷だと思う。この地点で生物学的に女性ではないため認めないような脆さを感じる部分があった。勿論これは私の抱えている偏見である。

そのときに子供を産むという行為ができるか否かだけで性別が決まっている状態に疑問が出てきた。そしてそれは生物として、本能としては間違っていないのであろう。

もし仮に子供の産めない体に生まれた性自認も身体も女性の人がいたとして、その人は自分で子供を産むことができないから男性と認めるのかといわれるとそうではないだろう。子供を産める、それだけが女性なのか。

子供を産む、産まないは大切なのだろうか。多分、本能として子供を作りたいと思う人が多いのだろうと思う。結婚をする目的として子供が欲しいからと考えて、それで相手を見極めて結婚をするのだろう。その時、その人が好きだったとして子供が持てない人だったら愛が消えるの?その時愛した人が子供が持てない人だったらその人は女性ではなかったり、男性ではなかったりと思われるの?別にここで愛を育めなくなるのはその人たちの勝手だと思う。そういう思考を持つ人もいるだろう。

(わたしはそんなことで相手と別れないと思う。自分の血に対してのこだわりが皆無だし、本当に子供が欲しいであれば養子でええやんと思うので…)

子供が産めたとしても産みたくない人だっているだろうに、そういう人も自認が女性でも男性というのだろうか。性別を 子供が持てるか否か でジャッジするのは「らしさ」とは違うと思う。

スカートが女性性であるならば、スカートを男性がはく国の男性は女性であるのかといわれると否だろう。どうしてスカートを女性性の象徴とする?文化、年代、背景でも女性らしさは変わるというのに。胸があれば女性?胸のある男性だっているのに?

逆に女性らしい服装をしていなければ、肉体も自認も女性であったとしても女性とみられない。服装でらしさを作るだけでラベリングされるというのに、どうして子供が産めるか否かで女性性を判断できるのだ。ここまでジャッジがよくわからないのに。

この自分たちが勝手に決めつけた 女性らしさ はあいまいではないか。子供ができるか否かがジャッジされるところであるが、子供ができない人は性別不明になるわけでもない。だったら、同時に性自認だけ違う人だって女性であり、男性ではないのだろうか。

そこで分けられる理由がわかっていない。

自分自身が女性であると認識しているのであれば、他が何を言おうとその人は女性ではないだろうか。そこでその人を恋愛対象外と思ったり、恋愛対象だと思うかどうかはその人の勝手である。好みは自由だ。だけど、何人も「女性」と自認する当事者の女性らしさを否定する権利を有しているわけではない。

2020年6月27日土曜日

本を勧める意味

私はある程度親しくなった人には自分の好きな本を教える傾向にある。おそらくある程度親しい人には本をダイレクトマーケティングのごとく渡したり、お勧めを教えたりしたと思う。それには色々と理由があり、一応自分なりのささやかな思いやりの中で生まれたものである。

お誕生日とかおめでたいとか何かにつけて本を送る。基本的に贈る人それぞれに本の内容を変えるようにしている。合う古典はそれぞれ違うと思うので。勿論親しくない人とか特に思い入れのない人には贈るつもりはないし、教えることもない。ブログなどには書いていることが多いけれど、その人に合わせた内容のおすすめはなく話すようになると思う。

こうして本を提示するのには理由がある。

私には同性の友人と異性の友人がいる。特に異性の友人の場合、今後その異性の友人に恋人ができたり、結婚したりすることがあると思うが、その時に僕がその友人の味方を表明することは難しい。基本的に恋人のできている異性の友人とは疎遠にするようにしている。その恋人さんに不用意なプレッシャーのようなものを与えたくないというのが理由である。

苦しいときに寄りそう役目はお相手の役割であり、恋人ではない私は完全な部外者として遠くから見守る以外のことはできない。それこそお相手さんに対して申し訳ないことをしているようであるし、浮気願望?不倫願望?みたいなあらぬ方向に発展しても困るし。

ただ、心に寄りそうができるのは相手ができればお相手の役割であると思うが、僕が今の地点で本をお勧めするのは二つあげられる。


  1. 本は裏切らない
  2. 言葉は心に残ってさえいれば本当に苦しいときに自分じゃなくてもその人に寄り添うことができる。

1の場合、人の性格はあいまいであり時が経てば変わり果てることが多いけれど、本は色あせないし恒久的に変わらない。人間の性格などといういびつで一緒になっても正体の見えないものよりも、本は変わらずに味方であり続けてくれる。私の今の性格はこうであるが、私が数年後にどんな性格をしているのか想像がつかない。人を傷つけて傲慢になりいびりちらしているかもしれないし、今のままかもしれない。もしかしたら自殺が成功して死んでいるかもしれないのである。それこそ三か月後すらわからないのに数年後なんていう遠い未来の自分や周りが良かれという状況であるとは言い難い。今の自分が好きな人たちに未来でも安定した味方がいるように古典をお勧めする。味方を与えたい意味で。

2の場合はこれは純粋な願いである。本当に苦しくて、味方が誰もいない状態になることが人生にはめぐってくることもある。そのタイミングでは恋人すらも味方ではないかもしれない。勿論そんなことはない方が幸せであると思う。ただ、そうしたときに誰も味方でなくても、古典の言葉は味方になってくれることが多い。一人じゃないとか、自分だけじゃないと思える本や言葉があれば、未来のその人が救われるかもしれないと思っている。僕はそういったときにその人の味方ではない可能性がある。理由は色々とあるだろう。その人が既婚者であれば色んなことを考慮して味方ではないだろうし…

ただ、今こうしてお勧めをしたりダイレクトマーケティングを行っている人は、今の自分の中では本当に好きな人しかいない。今の自分はその人たちの味方でありたい。だから人生で味方になってくれる言葉をそれこそ頭の片隅程度にあったらうれしいという期待値ゼロの状態でも渡す。好きな人たちが未来につらいときに、今の自分の意志だけは味方でありたいと思う。未来の自分はそうじゃないとしても。

以上である。理由はかなり単純だが色々と考えているつもりである。自分は恐らく誰とも一緒になることはないだろう。既婚者なら既婚者と出会ってもまだ大丈夫そう?に見えるけど、未婚が既婚者に会うとなると絶望的であるため、縁が切れる人は多いと思っている。この世界に自分を一番よかれと思うような人が存在しているわけでもないだろうし…

古典は言葉を与えてくれる。言葉は思考をさせてくれるツールである。人生で困難に遭遇することは多いけれど、考えることができたら、助けてほしいときの支えになったり、伝えることを行ったりするための手段を作ることができると思う。僕はずっと友人の味方ではいられないと未来を危惧している。だからこそ、今のこのタイミングで本を差し出して今の自分の気持ちだけでも未来でその人の味方でありたいと思う。未来の自分が仮に味方ではなくても、今の自分は本を勧める人の味方であるからその人を支えられるもので自分の最大限のものを差し出したい。その願いだけに尽きる。

2020年6月25日木曜日

人の葛藤は多種多様

この日記は今は心に余裕のない、某で出会った某さんに捧ぐ。内容自体に他意はない。

自分の良かれと思うことが他の人からしてみると等しく良かれと思える側面ばかりではない。自分からすれば良いと思えることでも、当事者は見えないところで苦労をしているケースは多い。

○○についての苦しみというのは無限にある。その苦しみは人それぞれ抱えていて、その立場にならなければわからない。故に僕は苦しみを理解をしていない前提でその人と話す。ただ、その立場ではないからと言って自分にとって良かれと思うことで、その人が葛藤していることで嫉妬するのはよろしくないように感じる。

例えば卒業した高校が工業高校→工学系だったので、よく人からは「工業系で女性なら男性が選り取り見取りなのでしょう?」と言われることが多い。その時「選り取り見取りと言いますが、自分が好意を抱く人が自分に対して興味がなく、興味のない人から嫌な好かれ方をする場合は幸せなのでしょうか?」と思う。そこにはその立場ではない人にはわからない葛藤がある。

(中学時代にサイバーセキュリティなら専門分野で食っていけそうだし独身でも一人で生きていけると思って志しただけであり、モテは考えていなかった)

「異性に囲まれればモテモテなのに?」

逆ハー(※逆ハーレムの略)であるならば幸せのように見えるかもしれない。現実問題として逆ハーだとして好きな人から好かれず、変な地雷男だけが寄ってくる場合は不幸な確率の方が高いだろう。世間一般的に女性より男性の方がパワーが上であるため、男性に好意で暴走をされると力では勝てない。故に恐怖の方が大きい。男性の中にいればモテるのでは?と考えてしまうとき、ここまで考えることは難しいとは思う。一方向で見たら幸せそうに見えることを全てだと思うことで、全体を把握したつもりになるのは違うように感じる。それは怠惰からくる傲慢な考えなのではないだろうか。(あくまで自戒として)

特に工業系の場合は女性が少ないがゆえに、男性の好意から「この人で妥協しておくか」というような諦めを感じるものを抱かれがちなのである。俗に言う「工業高校マジック」で(思春期に起きる不幸な勘違いが起きて女体が)モテただけに過ぎない。恋に恋している好意を、それを自覚してないがゆえに彼らは自己愛を押し付けてくる。ある意味、好意を抱かれたところで、自分に対してキープを見るような好意を与えてくる人が多い。

今の自分が今のまま工業高校時代に戻ったら、その恋に恋を押し付けてくる相手がいる事実が気持ち悪くて発狂することは間違いなしであろう。男性ばかりだから好いてくる相手は僕を僕として見ているわけではなく、僕ではない何かを見ている状態を感じながら学生生活を過ごすことははたして幸せなのであろうかと。そこから生まれる恋は不幸になるのではないかと思えてしまう。なんだかこのタイミングで好意を抱いてきた人とは対話ができそうにない。

この考えに至らず周りの異性がたくさんいて選り取り見取りだと言うのであれば、もう少し考え直したほうがいいと思う。付き合える許容値の人(理想でもなんでもいい)と付き合うのはかなわず、他に追いかけ回される生活がモテであるのであれば、モテたい人はその一瞬の虚無なモテを謳歌して現実を頭に叩きつけたほうがいい。

※工業系であった大学では大学2年の夏から教室の隅で講義を取り、人との関わりを友人以外無にしたため「モテなかった」ので非常に平穏な生活を送ることができた。わたしはそんな大学時代が1番好き。クラスに束縛されなかったし。そして、世界で1番尊敬しているA先生から「○○さんは口先だけでは見た目について好みだというけれど、対話ができる人が好みなんだねえ。対話ができる人と一緒になったら幸せになると思うよ」と言われて納得した。

「x年後に相手がいなかったら付き合ってください!」

工業高校時代から言われるんだけどこの発言から前提条件が「こいつとは絶対に付き合わんぞ」というわかりやすいものが漂うあれを感じる。私はおそらく神なのでこう宣言されるのだろう。こういうことでご利益があるのかもしれない。

上記の発言を人生で何度か言われていたが、これを言われて最初は「お前が僕のことをキープだと思うのは勝手だが、僕にだって選ぶ権利はあるのだぞ」と叱責をしていた。本当に好きならこんな遠い発言をしないので「ああ、この人は恋ができていないことに対して自分のような都合の良い媒介を作ることで、一種の現実逃避をしているのだろう」と初手で思う。事実としてそうした発言をしてくる人はすぐに相手を見つけて幸せそうになっていくのをみるし、内の1人は授かり婚で結婚した(実話)。僕は櫻井神社か。最近は若さが失われて反論をいうことすら諦めてしまい、ある時はもはや自分に対して笑うことしかできなくなっている。まあ、自分からはこうした発言は言わないようにしている。大変失礼なものなので。

ただ、周りから言われるのは「都合のいい人だと言われたとしても、そもそも好意を抱かれるということ自体がないので自分なら付き合うだろう。あなたの発言は結局は相手を選びすぎなのだ。」と言われる。いや待て、自分を自分として見る相手と付き合わなかったら、そもそもそうした関係などことごとく破壊されるのだし秒で破局するぞ。それは逆に双方に失礼な関係なのではないか?これをいうと発言を理解をしてくれる人と、お前それはモテるな?と煽ってくる人がいるのでとてもつらい。理解してくれる人はモテモテだったり大体相手がいたりする。

最近では「そんな関係性は学生で卒業しとけよ」というものを自慢してくる人もいるし、スペックを見られているだけで中身を見られていない関係をドヤドヤされることもある。対象から身体しか魅力を感じられてない人もいる。それこそ「モテる=数だけで見れば告白をされる」とか「モテる=チヤホヤされる」を真とする虚無がモテるだと思っていて、この人は学生時代には本当にモテたことがないんだなと思って悲しい気持ちになることもある。真にモテるとは好きな人から好かれることなんじゃないかなと僕は思えて仕方がない。

痩せ過ぎていることが不健康が故に不幸な人だっているし、顔がいいことで嫌な思いをしている人だって世の中で探せばたくさんいることだろう。一般的に素敵に見えることが必ずしも全てそうであると言い切ることが僕にはできない。人それぞれその立場ならではの葛藤を抱えて悩んでいることを忘れたくないと思う。そして、その悩みは自分も相手のことを理解ができず、相手も自分の悩みを理解できない。気持ちに寄り添うことはできるけれど。

2020年6月24日水曜日

凡人が行う選択と集中は視野を狭めるだけに過ぎない

異論は認める。

私は控えめに言って凡以下ですが、努力で凡のように見せることに努めています。そんな私ほど選択と集中の似合わない人間はいまだかつて出会ったことがないくらい色んなものに興味があり、色んなものに対して勉強やら趣味やらをしていると思っています(が、私以上に色んな事に首を突っ込んでいる人は沢山いることでしょう)。よくお世辞を伝えてくる人たちから「色んな事を知っているね」といわれることが多いです。それはわたしの興味がたくさんあるからだと思います。

私の興味は元々それほど広い範囲ではなく、好み自体は偏りのある人間です。ある時周りの人と会話をすることができない孤独感に苛まれて、色んな人の勧めを全力で挑戦して合う合わないを知ることで興味がどんどんと増えました。興味が増えたら色んな人の話が楽しくなったり、もっと聞いてみたいと思えるようになりました。特に最近では一人で放浪する(※余談1)際にその土地で出会うご老人の方々と会話をする機会が多いのですが、その時に会話についていけたり、そのご老人の会話の内容に関連する事柄を引き出したりしたときに心地よく話してもらうことが多く、その時に色んなことを吸収しようと思ってよかったと思うばかりです。

私は色んなものに手を出してそしてなぜこれが好きな人はこれが好きなのかとひたすらに考えます。そうすることがとても楽しいのです。わたしは人間は嫌いですが、人間が非常に大好きなので人がどうして興味を持ち、好きになるのかを知ることは好奇心を刺激してくるため本当に豊かな気持ちになることが多いです。

特に最近では「ああ、この人はこれで好きだと思ったのか(※余談2)」と理解することができた時にジャンルに手を出してよかったと感じます。基本的にその物事が好きな人がどうしてそれが好きなのかを理解できた時、自分も好きなものが増えた感覚がしてすごく幸せな気分になるのです。人の好きなものに触れて、その好きなものに対して考えることができるようになると好きを共有できるような感じがして、個人的にはとても楽しいのでお勧めします(?)

それをある時に人から「○○さん、色んなものに手を出しすぎなんだから選択と集中をしたらどうなんです?」といわれたことがあります。話を聞いてみれば「技術一辺倒になればいいのに」といってきてがっくり。何もかもに興味があるだけの私は彼からすれば広く浅くを地で行こうとする人間で気持ちが悪かったのかもしれないです。平たく彼の話を意訳すればこのような形でした。


  • セキュリティをしているのに歴史なんて無駄なのでは?
  • 古典を読むよりビジネス書を読んだ方がいいでしょ
  • 多く手を広げるほど人生は長くない。今から広げすぎるより狭めた方がいい


彼の美意識をとやかく否定するつもりはないですし、それで成功をされているのであればその通りに過ごせばいいと思います。ただその考えを人に押し付けてこなければ何でもいいですよ。それこそ私個人の性格として自分がやりたいことを今から始めないと年を取ったときに後悔するような気がしています。そう思うか否かは多分人それぞれですし、選択と集中により○○を極めたい人もいると思うのでその考え方が間違っているとは言いません。もしかしたら私が夭折するかもしれませんし、その場合は選択と集中を行っていなかったために何も功績をあげずに死ぬ自分を悔やむかもしれないです。その時はその時です。

個人的に、選択と集中を行うと視野が狭くなるだけに過ぎないと考えています。それこそ○○に対して天賦の才をお持ちであるのなら選択と集中で特化させればいいと思います。しかし私も含めて大体の人間は凡でしかない。

個人の見解ですが凡は選択と集中をして視野を狭くすると考え方が凝り固めやすいのではないかと危惧しています。柔軟性に富むためには色んなことを(もちろん自分が目をそむけたくなることも含めて)知って、多様な物事に対して考えらえるようにするのが戦略としては良いのではないかと思っています。知識は広く持っておくとその物事と遭遇したときに取っかかりやすくなると思うのです。

勿論、選択と集中は今後の未来から見ればもしかしたら正しくて、こうした私の考えが間違っている可能性を秘めていることは否めません。ただ、私は色んなことを知りたいし、色んなことを選択肢として残しておきたいと思います。知るというそれだけでそれを知っているほかの人との会話をすることができるのであるから、それだけでも教養として良かれという部分は大きいですし……




このツイートはかなり自分の思っていたことが言語化されていて非常に好きです。

「選択と集中」と株主総会で発する優れた経営者は魅力的に映るのかもしれないですが、こうして言葉を書いている私も含め大体は凡人でしかないのです。私は広く浅くでいいので教養を増やして人生を豊かにしたいです。

正直に何かで功績をあげることを人生の目的にはしていません。物事を知るために知る手段に成りえる何かに首を突っ込みたくなることはありますが、目的はそれだけなのです。知りたいという欲求を満たすために行動をします。知りたいと思うと周辺知識も得ようと努めるようになるので教養も深まることが多いです。個人的な見解として教養は視野を広げると思うので持っていて損はないと考えます。

余談

余談1:私が出没する場所は大体史跡が多いので、史跡へ行くと若い人よりもお年を召した方の方が多い印象を受けています。勿論若い人もいるのですが、割合としてはそれほど多い印象を受けません。私は史跡を一人で見ていることが多いため、非常に声をかけやすいのか色んな面白い話をしていただくことが多いです。特に話していると郷土史関係を聞くことができるのですが、全国津々浦々の戦国武将の知識を叩き込んでいたことがこれほどまでに役に立つ日が来るとはと感動している次第です。戦国武将が思いつかなければ幕末か江戸時代の話をとりあえず思い出しながらその人の地元の話をすることが多いです。

余談2:例えば「どうびじゅ(どうして私が美術科に!?の略語)」を死ぬ気で推しているSecHack365の思索のオタクの熱が余りにも凄くて、どうびじゅに手を出したことがあります。そして「なるほど…主人公のまっすぐさと周りの人たちのやり取り、そして一番は工業系の人間に刺さる内容…これはハマるのも無理はない」と思ったときに感動したのですわ。

2020年6月22日月曜日

技術は権威じゃない

技術は権威ではないと考えています。持つものが傲り高ぶるために技術を使うのではなく、人を支えるために使うものではないでしょうか。大切な意識ですが、技術とは人の生活を豊かにするためのものです。技術を持っているという理由で(この言葉もかなり傲りを感じるのですが)自分から見て持たないと見える人を馬鹿にするような言動をとることの出来るものではないと思います。

技術を持つものとしての矜持として「技術という力を持つからこそ、その力を人のために活かすことが大切だ」と考えています。まだ自分には技術者として胸を張ることができるくらいのコア技術がないのですけれど…

根本の話は私には技術を語れるほどの力がないですし、人に対してのアレそれを書けるほどの立派な人格ではないので触れませんが、このムーブメントに対して感じたことは書くことができると思い、ちょっとTwitter言論がアレになりそうだったのでブログに避難しました。

私は言論が燃えてる人を見るたびに「僕ももしかしたら歳を取るごとにこうなる可能性があるのかもしれない。今後技術をつけていくごとに技術を権威だと思って、他者を傷つけ傲り高ぶることをしないように戒めていこう。僕は周りの人たちに恵まれているから特に自分の発言には気をつけなければならない(※自戒なので強い言葉)」と自省します。

私はありがたいことに素晴らしい環境で働くことができているし、自分の周りにいる人たちも本当に素敵な人たちだと思っています。だからこそ、この素敵な環境は当たり前ではなく与えられた立場を意識して自分の能力を他者の幸福のために使いたいし、誰かを傷付けるために自分の立場を利用して発言をしたくないと思います。素晴らしい環境を与えられた側は、与えられた運を活かして他の人にも幸せになるような行動をしていくのが理想なので実践したいと思います。これはあくまで自分の話ですが…

他の人にそれを強制することはできませんが、今回の一件で改めて自分は傲っていないかと自省をしました。

同時に自分より歳をとっている一部の人を「全て」とひっくるめて発言もしたくないです。何故ならそういう傲り高ぶる人は一部でしかないと思うからです。あの年代の方で素晴らしい人と出会っているからこそ、一部の人で世代の印象を決める必要もないと考えます。そう「全て」とひっくるめてしまうと、自分も同じように攻撃性を曝け出しているだけに過ぎないように感じられます。

発言を間違うことはあるし、未来の自分にもあり得る話なので観測者の自分は内省します。自分が技術力と社会的な立場も得てしまったら、そういった言動をするかもしれません。そうならないためにはこうした 技術を権威のように振る舞う人の燃え盛る事象 が起きたときは、当事者を責めるのではなくて自らを反省します。

自分ごとにしなければ、他の人に対して責めているような言論になってしまいます。私はそれもそれでおかしいと思うのです。責める行為は、攻撃性を発現したがゆえに燃える人と同じ立場になってしまう気がして、自分には美しく感じられません。

間違ってるとか正しいという観測者の基準で変わることについて自分から何もいうことはできません。自分ができることは美意識的に良かれと思うことのできない言論に対して、自分はこのような言論をしていないかと反省することしかできないのではないかと思います。そこに責めるべき他者を作る必要はないと思います。

…本当に強い人が他者の人格を否定するのは美しくないと思うけど、それを否定すると同じ穴の狢になってしまうので自省。

「技術は権威じゃない。生活を豊かにするためのものだ」…これはわたしが某キャンプで教わった唯一身につけたもので、1番手に入れてよかった美意識です。

2020年6月20日土曜日

ナンパの話

かつては街の音を聴くのが好きだった。人の流れとか車の音、いちゃついてるカップルの女の子のかわいらしい声とカラスの鳴き声。飛んでいく鳩の羽ばたきの音。クラクションに驚いたり、遠くから聞こえる風船の割れる音で悲鳴を上げたり。子供の泣き声に心配をしても助けることができない自分にもどかしくなる。別の視点を探せば話したことのない誰かの生活のワンシーンを切り取っているような感じがして、音から人の営みを探すのが好きだった。

私が音を聞かなくなったのは二度目のナンパをされたときから。それ以降は町の音はまったく聞かないでナンパが来た時に無視をするためにいつも好きな声を聴くことに集中するようになった。

一度目はナンパとは言えない…制服を着て予備校へ向かっていた時に不潔感の極まるおじさんから急に声をかけられた。「お嬢さん、5万円で遊ばない?」と聞かれ、その時にこれがうわさに聞くナンパであろうと洗礼を受けたと思った。普通に嫌だなと思って苦笑いをしても離れてくれなくて、無視を決め込めば「お高く留まっているつもりなのか」と捨て台詞を吐かれて去っていくおじさん。その姿は知らない他人に対しての発言としては非常に申し訳ないのであるが、大変醜いものを感じた。
あの時ナンパだと思って無視をしたけど、よくよく考えると援助交際を求めていたのであろう。高校生によく聞くよなと今となっては思うところだけど、高校生だから声をかけられた案件だったのだと思う。5万でJKを買おうとするなんて安すぎないかと思うけど、世間的に5万ってどうなんだろう。そもそも売春自体が法律違反なんだけどさ。

二度目は大学生で、良くわからない茶髪のお兄さんから「お茶しようよ」と無限に声をかけられて「あはは……困ります…」と言いながら去ろうとするが、ずっとついてくるお兄さん。「一目ぼれしたんですって!」といわれても「ナンパってこれが常套句なのだろう」と思うと彼をどうやって突き放すべきか歩きながら思案するしかないのである。茶髪というそれだけで苦手なのについてこられて胃が悲鳴を上げ続ける。
こうしてつられる女の子がいてちょろいと思い、成功体験によって自分のような日陰者にも声をかけてきている(むしろ日陰者であるからこそ落としやすいと思われたのだろう)と考えを巡らせながら無視を決め込むがしつこく声をかけてきてついてくるお兄さん。結局無限にアイデアが浮かばず、結果として無視をし続けていたら「本当に最低!!!女のくせに!!!!」といわれて去っていった。もはや何もわからなかった。東京の駅はダンジョンのような作りであるので端から端までは結構な距離があるのだが、結局彼は入り口から出口までついてきた。あまりにもついてきたのでちょっと怖かった。

一度目から通報したほうが良かったのであるが、二度目で心が折れてしまったのでそれ以降はヘッドホンを装着して生活をすることが当たり前になった。今ではヘッドホンの音を聞いていないと不安なくらいにはヘッドホンがお守りの役割を果たしている。本当は音を聞くことでその町の特徴とか、今の姿とか感じられるのは幸せなのだと思うのだけど、自分にはもうそれをすることはできない。

三度目からは声をかけられてもヘッドホンがすべてを遮っているので何も聞こえない。いつも本当に苦しいタイミングでは大切な曲を聞きながら無視を決め込んでいるので、目の前の人の形相が悪くなっていく光景を大切な歌をバックに眺めるのは正直悲しい気持ちになる。でもヘッドホンがなければ自衛もできない。早く年をとらないとヘッドホン生活を抜け出すことができないのであろうと思うと、性別に対してとても悲しいものを感じる。年を食ってもナンパされてしまう人生じゃないと熱く信じながら………

ナンパは声をかけられるだけに過ぎない。声をかけられた側もかける側も双方に不快な気持ちが与えられるものであろう。ナンパで苦しいと思ってもやりたいと思っているのかもしれない。実はナンパをされる方が何のためにやっているのかわからないけれど、色々と想像をしてフォローをすれば出会いがない気持ちは社会人になってからひどく痛感する部分であるため、そういうことをしないとやっていけなくなる気持ちもわからなくもない。声をかけられることは正直何があるのかわからなくて恐怖であるが、彼らも出会いが欲しくて苦しいのかもしれない。ただ、声をかけられた側に捨て台詞を吐き捨てる必要はあるのかはわからない。自分にはその境地が想像もつかない。

まあ、ナンパ力を上げようとするくらいなら修養を励めよとは思う。

2020年6月14日日曜日

○○女子というくくりは必要なのか

中学のはじめに大河ドラマの天地人(※余談1)が流行ったころ、同時に「歴史女子=歴女」というワードが世間に浸透してきた。私は当時から歴史が好きだったこともあり人から「歴女」と呼ばれることが多かった。

歴史が好きなだけなのに、何故か性別でカテゴライズされることに対して憤りを感じ、当時は歴女と言ってきた相手には怒っていた。今でも○○女子というワードは個人的に苦手である。ただ、当時は言葉を表現することが苦手なので、今となってはその言葉はただただ感情的であったかもしれないけれど。

疑問が大きく膨れ上がり自分に対して困惑していき、ある時から数年ほどネットでは男性のふりをし続けていた(※余談2)。その時に男性と会話するうえでは女性であることを知られるとクソ面倒くさいことが分かったのと、同時に女性は特に男性と会話をする上で既婚男性に対しては女性と会話するときと同じようなテンションで会話してくれることが分かった。500人の相互フォローさまたちのおかげである。

私が「僕」という一人称を使い始めたのもちょうどその頃からだった。女性であるというだけで括り付けられることが本当に嫌いだった。高校時代に性同一性障害の知り合いができ、彼女から様々な話を聞いていくと性別についてのあいまいさについて考えることとなる。正直にこのタイミングから性別そのものに対しての疑問が大きかった。今も性別に対しての疑問はぬぐえない。

その疑問を抱えたまま、高校と大学は情報系を突き進んでいた。高校時代はSTAP細胞の小保方さんにより「理系女子=リケジョ」というワードが流行り、それも嫌な感じの言い方であることがニュアンスでわかるようなものであった。結局、STAP細胞問題で小保方さんの理系女子というものが馬鹿にされ始めていく風潮がどんどんと出てくるにつれ、女性でくくる現状に吐き気を催すくらいの嫌気がさした。あの時はSTAP細胞と小保方さんの問題であって、理系にいる女性がすべて問題を起こすと思われているのかと突っ込みたくなるような流れであった。

大学は「情報系の女性が少ない事実」を目の当たりにしてから、同時に情報系の男性の一部で嫌なことが自分の周りでも起きた。誰とは言わないけれど女性であるというだけで舐められているのと、彼からすれば性欲の対象なのであろうということを感じて「女性らしい格好をする」ことが危険なのではないかと思わせてくる人もいた。危機感を覚えてかりそめの恋人を作るなど、本当にどうしてこんなことをしなければならないのだと思うことが多かった。

???「どうせ、あんたは色んな人と遊んできたんだから、それこそ俺と一夜遊んでも何も減らないでしょ?付き合ってくれてもいいのにどうして?」

これ、告白(笑)で言われた発言で、そこから人に対しての好意をずっと考えては葛藤する次第。自分は人に好意を持ったりそれを伝えたりなどして自分が好意をぶつけた相手を傷つけることはしたくないと思うきっかけとなった言葉である。女性らしさを減らせば彼らは寄ってこない。女性らしい格好をしたいとは思うけど、同時に女性らしい格好をすることで寄ってくる人間が気持ち悪くて仕方がない。

多分彼は次に進んでいるでしょう。自分は傷ついたけど、振った相手からは「傷ついたことすらもお前は女性なんだからエンジニアの出会いが多いんだし耐えろ」という感じできつかったなとは。それ以外にも女性であると人として仲良くすることが難しいのであろうかと考えることが何件か起きてしまい、そこから性別への嫌悪感が生まれ始めた。

なのに、色んな所で「セキュリティ女子!」といわれ、女子……と思うにつれ、どんどんと自分の肉体と精神が離れていく。セキュリティの活動を行っている女性が少ないことは承知しているけれど、女子とくくられることで、更に希少性みたいなそういうジャッジをされて変な人が寄ってくるのではないかと思う。

なぜ好きなことをしているだけで知らん人からジャンル分けされてなきゃいけないんだ。美術館に行っても「美術館女子」、歴史スポットで勉強していても「歴史女子」、情報系の勉強会に行っても「○○女子」…私が男性だったらよかったのか?

時代遅れな考えを掘り起こせば「学ぶことや知ろうと思うことは男性の特権だったのに、それについて触れようとする女性は云々」ってことなのか?

○○女子というワードでくくられているジャンルでその○○女子にすり寄る男が現れて大変だというニュースを見ると、その懸念が現実になっているのだろうと思えて悲しい。なので、世間の○○女子という人は○○女子の当事者の悲しい気持ちを何とか理解していただけると嬉しい。

「○○女子というけれど自衛はお前が勝手にやってろ。変な男が来てもソレで傷ついたとしても全部自己責任」だと、好きなことをして生きるために覚悟を決めないといけないのがしんどい。

余談


余談1:天地人とは越後国出身の米沢藩の上杉家の家臣である直江兼続が主人公の大河ドラマ。関ケ原の直接要因となった直江状の送り主。直江状は直江兼続の頭の良さから出てくる皮肉がきいててすごい。

余談2:2011年から2016年までtwitterで開設していた。今でもGoogleアカウントで名残のあるYoshihiroという名前。鹿児島県在住の40代の既婚歴史好きのエンジニア男性のふりをしていた(※島津義弘だったら…みたいなことを考えた結果がこの設定である)。一人称が僕。男性性のアピールが難しかったため、架空の奥さんののろけを書くなどした絶妙におかしなアカウントである。Yoshihiroという人間としてかけていたので、割と性別関係なしに人とつながれていたのでとても楽しかった。ただこのアカウントは2016年の熊本地震の際に親から「人を心配させるな」と怒られたのでやめたが………

2020年6月5日金曜日

期待と重圧

よく誰かが誰かに対して期待をする現象を見る。例えば、自分に対して誰かが期待をしてくれるときとか、トップを目指す人に期待をするファンとか。天ヶ瀬冬馬君へすさまじい期待をしている自分の姿はまさしく今回の話の主軸ともいえるかもしれない。

期待を受ける側としては、期待はありがたいことではあるけれど、同時にその人に対して重圧を強いられているような感じがして、それがとても自分が相手に与えるものとしては大きすぎるように感じてしまう。もちろん、そう考えるのは自分だけかもしれないし、考えすぎであるとは思う。健全な期待と、不健全な期待があるような感じがして、その差についてオタクとして推しにどう期待をかけた方が良いかとよく考える。

期待をかけるとは、その期待をする側の願望に過ぎなくて、期待をされている側はそういった期待の部分を意識していないこともあるのではないかと考えることがある。推しが求めていた応援と違うベクトルで期待をして、激しく推しの精神を追い詰めてしまうような、そういった期待の大きさってあるような感じがする。それが私は他人からされるのも怖いけれど、他人にしてしまうことに対しても怖いと思う。

期待をかけられすぎると重圧がひどくなる。

推しが素晴らしい人間であり、結果を残している人間である。そして彼はトップアイドルになる実力を有している。これは素晴らしいことであるが、当たり前のようにこれ以上の期待をかけすぎて「天ヶ瀬冬馬くんに(任意のhoge)の記録を樹立してほしい(ex:BNFでグラミー賞を取ってくれ)」とかもし仮にその実力がある人間であったとしても、こういう期待値の高い期待をされると苦しくないかと考える。

こうしたファンの起こす無自覚で無意識な期待は、ありがたいことであろうけれど同時に今以上にストイックにさせてしまい、推しに無理をさせることもあるのではないかと危惧する。無理をしている人間は実力があったとしても、不調に陥りやすいメンタルになるのではないかと自分は過度な心配をしてしまう。

こう変な心配ごとを考えるようになったきっかけがある。

かつて、私の弟が父方の親戚からとても期待をされていた。今も十分期待をされている人であるし、そのたびに兄弟である自分は比較をされ続け、親戚から劣っているといわれるたびに彼に対して憎んだことがあった。しかし、いざ自分がある1件で彼の立場になったときに気づいた。期待をされるというのは、自分の求めていない期待であると、重圧が激しくなるということを。

期待をするとき、その期待に応えた姿に対して自慢をしたいと思うがためにかけるのであったら、それはただの重しのように感じる。健全な思いの期待と、自分には何もないからその人をアクセサリーのように自慢するための期待には似たようなものに見えて、現実的には全然別のものである。応援しているときの言葉のベクトルが、少しその期待をしている人間に対して欲のあるというか、その相手の心を考えていない言葉が出てきてしまうこともある。

「自慢のための期待なのか?」

期待は表裏一体に感じる。求めている期待であれば、その期待は大きな自信につながるであろう。ただ、よこしまな期待や、求めていない期待であるとき、期待をかけられている立場の人間は苦しくてたまらなくなる。それを私は何も知らなかった。

○○社に子供が入った俺凄いとSNSに記載するような…自分が親のアクセサリーのようなものであろうと気づいたとき、その期待とはいったい何であろうかと考え始めた。そして、期待のかけ方に対して考えることが多くなった。

弟が結局父方の親戚から嫌な期待をされていた事実に気づいたとき、私が弟に憎んだ気持ちに恥じて、それから弟に対して激しい同情をした。そして、怨んでいたことに対して愚かであったと反省し、弟に対して申し訳なくなった。

それから天ヶ瀬冬馬君を推すときに結構考える。「彼はトップアイドルになりたいというし、実際にそうした行動を行っているが、果たして純粋に夢を追いかけている彼を推すとき、彼の重圧になるような期待のかけ方をしていないであろうか」と。

例えば、自分がトップオタクだから彼から見返りがあるのはしかるべき、、、古参のファンだから彼を成長させたのだ、、、というような自己愛で汚いマーブル色になっている忌々しい言葉を吐き出し、それを押し付けることは果たしてオタクとして美しいのだろうか。その期待のかけ方は彼をつぶさないだろうかと。

もちろん、天ヶ瀬冬馬君は二次元の人間だから、そんなことを考える必要はないだろう。ただ、この精神的な距離感は学生時代に得ることができなかったからこそ、ここでつかんでおく必要がある。例えば自分に家族ができた場合、相手に対してや子供に対してそのような自己愛でまみれた言葉を与えて重圧をかけて、本来のその人たちの良さをつぶしたり、つらい思いをさせたりすることは真の意味で期待をしているのかどうか。客観的に自分を見ることができなかったら、他者を不幸にさせるだけに過ぎない。自分が不幸なのは自己責任でしかないけれど、他人を不幸にするのはきれいに言葉を書けないがとても悲しいことだと思う。

ただ自分は今まで自己愛にまみれた期待を見続けていたし、それによって育ってきてしまったのである。幼いころの意識付けは一生残るともいうのが怖い。この自己愛を自分が好きだと思う人間たちに行うのであれば、自分の好きとは何であろうか、期待して応援しているつもりのこの気持ちとは何であろうかと自分に言い聞かせないとどうしてもいやな応援の仕方をしそうで、いつも自分と対話を行う。

その相手のことを思う言葉をかけるためにこうして反省し続けなければ、自分の感性では美しいと思える応援をすることができない自分に恥ずかしく思うが、いやな行いを今は行わないように内省できているのであるからまだマシかもしれない。

嫌な期待のされ方を受けている人間に対して、敬意を表する。私であればつぶれてしまう。

2020年6月4日木曜日

変わっていく姿を求められる人と変わらない姿を求められる人

今回この記事においての定義づけとして以下のような言葉の使い方を行う。


  • 成長して変わり続ける→アイドル
  • 絶えず安定感のあるものを求められる→王者

どちらも死ぬほど努力することには変わりない。

----------------------------

推しはふたパターン存在しているように見え、そしてどちらも努力の末輝いている存在であることがわかる。例えば、トップを目指し成長し続けて変わり続けるアイドル性のある人、もう一つは絶対的な実力からくる安定感のあるものを求められる王者性。

アイドル性も王者性も実際軸としては同じように見える。成長して変わり続けているとしてもその人の軸が変わらなければ、安定感がある状態のままである。表面的に変わったとしても、内面的なものは変わらない。

例えば、西城秀樹さんは「アイドル性」が高いが「王者」である。絶えず成長をし続け変化をしているが、その実変化を求められていない人生を過ごしていたように見える。ファンの見方によってはどちらともとらえることができる。軸は変わらないが、見方の問題である。

後は…最近語彙が将棋が増えてきたので、精神年齢が小学生なので覚えたての言葉を使うが、個人的に今の藤井先生(※未来は恐らく違う)は「アイドル性」を求められていて、タイトルだとか、若いから云々とか成長に対しての期待をされ続けている。
今の羽生先生は「王者性」を求められていて、圧倒的貫録で他者をねじ伏せることを求められているように感じる(なんとなく彼には安定感のある勝利を求めているのではないかと思える)。おそらく過去はアイドル性を求められていたのではないだろうか。

うーん…(語彙力がないと反省しながら書く文字を考えている顔)

ある程度突き抜けたものに対しては王者性を求めるが、その王者性も真の意味では時代に合わせて変化しているため、「変化のないように見える変化」を求められているのである。

天井を掴み、その後努力をせずに怠惰な状態になれば、どんなに若い人であろうとも老害になり果てる。変わらないのは事実であろうが安定感のある王者の状態ではない。

王者は変わらないために変わり続けなければならないように第三者からは見える。変わらないために変わらない人は過去の人になる。

結局のところ、王者であろうとアイドルであろうと、その努力を見せているか否かはさておき、努力をした人たちが好かれる印象にある。天才というものは存在せず、怠惰であれば真の意味では天をつかめない。

個人的にはなんというか、努力量が圧倒的な人たちっていつ見てもすごい人にみえて、圧倒的に見えるんだけど、どうしても「天才」は存在していないなぁと思える。わたしとしては、他者を天才と表現するのは怠惰な人間が自分の努力不足に目を背けて、才能で片付けているだけに過ぎないように感じる。

2020年5月31日日曜日

好きな人間に自信がないことに対して

私は人として好きな人間がTwitterにいて、その人のつぶやきを見るととても嬉しい気持ちになり、それから少し幸せな気持ちになる人がいます。言葉の思慮の深さと言いますか、彼のすごく考えて生まれたであろう葛藤からくる表現に私の美意識の中では非常に美しいと思うところが多いのです。本当に素敵だと思い、こころから慕っているといっても過言ではないでしょう。

ただ、その彼が何につけても自信がなさそうな状態であることに対して、私はすごくもどかしい気持ちになります。

私はその人自体に何か立派なものを求めているわけではなく、その人の言葉、その人が如何に葛藤したのかがわかるつぶやきに対して、敬意と好意を抱いています。その気持ちは彼が追い詰められているときからそうであると思うのですが、彼が何をつぶやいていたとしても自分の中では彼の言葉がとても素敵だと思うため、彼が何かと「自分には何もない」と言葉を出すことで自分は見ていて苦しい気持ちになります。

好きなものを好きな対象が否定しているときは、ファンとしては言葉にできないくらいいたたまれない状態になるようです。

素敵だと思う人が自分からすれば素敵だと思う部分に対して、劣等感を抱いている状態にひどく悲しい気持ちであることがわかりました。何に対して苦しんでいるのか、何に対して辛くなっているのか私にはわからないところが多いかもしれないです。ただ、どうしてもその人の劣等感に対して(おそらく自分が劣等感の塊であるからこそ、ではあると思うのですが)あなたはあなたのままで魅力的であるのに、どうしてそんなに苦しそうにしているのですかと言いたくなってしまいました。

ただ、自分も劣等感の塊であるからこそ、その劣等感で苦しんでいる様に対して声をかけることで解決するわけではないこともわかっています。劣等感とは自分の中でしか解決することができないし、その劣等感に対して向き合って乗り越えられるのもまたその人しかできない。私はその劣等感とそれに付随したネガティブな思考に対しての問題とぶつかっているからこそ、その人に対してその劣等感に対しては傍観者であることしかできないと思います。なぜならこの問題に対して私は無力なのです。

2020年5月25日月曜日

過去を引き合いに出される人たち

自分からすれば過去のものというものは確実に存在していて、過去はこうだったことをいまだに言われると「過去の○○に対して今の自分はそれに見合う人間になれているのだろうか」と考えてしまうことは往々にある。

例えば、自分からすれば数年前の過去の産物を、未だに○○参加者なんだからと言われることもあるが、その過去の○○参加を名乗るほどの実力がなかったと自認する場合、居た堪れなさや恥ずかしさで暴走したくなることがある。

それこそ第三者からすれば○○参加や○△というコミュニティに属している存在に対して、○○の人と言ったり○△ということでイメージを固定した方が、その人に話しかけやすかったり、覚えやすかったりするのは事実なのだろう。コミュニティに参加することで現在進行形だと認知されることは多い。過去の産物やコミュニティで会話する第三者との共通認識が生まれることは否定できない。実際、そうしたコミュニティに所属できているというそれだけで、ビジネス的には良かれと認識されるなんてよくある話である。

過去の産物を産物として利用するのはすごく分かりやすくて、その過去の産物から抽出できたもの(経験則、成長できたもの)を話した方が自分の中では説明がつくものは沢山ある。そのため、全てが全て出さないで隠す必要もない(むしろ、その話題を出さないと自分の説明に辻褄が合わないことがある)ため、それ故に人に対して「過去の○○の話は過去のものでしかないのです」と強く言えるわけでもないのがもどかしくなって困惑してしまう。

ただ、過去のことを過去だと自分では認識していても、他の人からは過去のものだと思われず、現在進行形の肩書になっていたり、それでしか覚えられていなかったりすると当惑して「自分は他のものも持っているのに」とか「自分はそれ以外の部分を見られていないのだろうか」と焦る気持ちも生まれることもあるかもしれない。たまに過去の産物で嫌な気持ちになったり、過去の産物によって言葉を封殺されたりすることはある。

ひとつだけ個人的な見解(極論)をお伝えすれば、その過去のものであると認識しているものを積極的に出してきて、それに参加している、参加していないの部分で対応の変わる人間がいる。そういう人とはあまり関わらない方がメンタルに良かったりもする。
(しかも過去への言及自体は、とてもじゃないが態度の変わる人間の数が多すぎる。)

過去の結果(の中でも特に皮の部分)をみることで強いとか、弱いとか表層的なものによって自分の価値を認識してくる人は、正直自分そのものを見られていないことが多い印章がある(※余談1)。本当に過去の結果と自分の印象を見る場合、その結果だけを見るよりかはその結果に至るまでの葛藤や過程の部分での人間味を見たほうがその人らしくて、その部分に相手のその人を見てくれる人といると個人的には安心する場合が多い。
(ただ、お気づきかと思うけれど、同じものを共有した人間は大切にした方がいい。時が違えど同じ苦労をするはずなので…)

うーん、これは話が広がりすぎて結論が書きにくいんだけど、結論としてはその人柄を見てくれる相手ってのがすごく大切にした方がいい人で、表面的なもので判断しようとしてくる人と関わると結構大変ってことです。表面的な出来事で「あなたの価値はある」とか「あなたの価値なんて」と言ってくる人は、話していて大変疲れるので、内面を見てくれて楽しく話せる人はとても大切にしたらいいと思います。(小並感)

20分で書いたので言論が雑。

【余談】

余談1→学部時代にセキュ某に参加した後、大学に帰ると自分は何も変わっていないはずなのに、周りの態度が180度ほど変わったケースがある。それこそセキュ某に参加する前は「できないくせに」と馬鹿にされることが多かったが、セキュ某に参加したというただそれだけを見られて「プロ」とか「つよいひと」と言われたことがある。事実としてわたしは行く前も行った後もできない人間であった。また、セキュ某へ行ってから性格が90度くらい変わったため、その時の人々の持ち上げ方に気持ち悪さを感じ、人の態度が露骨に変わったことで人間不信に陥った。その時に態度を変えなかった数人以外との連絡手段を遮断したことがある。2016年以前から知り合いで、今も親しい人はその時に態度が変わらなかった人間しかいない。2016年に自分の周りの人間を切り捨てすぎた。本当に極端なので…
(就活後から会社名などを言わないようにして態度を変えられないように努力したが、教授が会社名を言うと聞いた他者の態度が変わることがあってメンヘラになったことはある)

2020年5月21日木曜日

読書と教養

 個人的な見解を述べると読書をすると言葉が増えるのは事実だが、読書を行わないから教養がないという発言は的を射ないと考えている。確かに読書をしている人間の方が本から得られる情報により教養を習得しているケースが多いため、その論が一つの見方において正しさを有することがある。ただ、教養を得る方法は読書だけではない。読書だけを正義であると認めて視野を狭めることが一番恐れるものなのではないか。

 私が読書から教養を得ている人間に対してかなり好意的印象があることは否めないが、だからと言って読書をしていないという点だけですべてととらえて否定することは世界を狭めるだけに過ぎないと考える。読書以外でも教養を得られる芸術分野は存在しているわけであるし、そうしたものから得られた感性を大切にしている人間の言葉も素敵だと思う。また現実の世界に存在する人から影響を受けた言葉を大切に考える人もまた、その人の中にある大切なものを信じているわけであるから、そうした大切なものを軸に努力する人も魅力的であると思う。そのような読書以外で得られた魅力のある人間を自分は否定したくない。

 例えば、○○さんは読書さえすれば完全な理想的存在であると認めた時、○○さんに読書をしてもらうことを押し付けるのは○○さんの個性を否定することになる。○○さんの読書をしない個性を認めて、別にもいるであろう読書をしている人と接すればそれでよいのではないだろうかと考える。(おそらく)好きな人間に対して自分の理想を押し付ける行為は自己愛でしかない。その人間がある程度受け入れるのであればよいのかもしれないけれど、人のおすすめなどを受け入れる行為は受け入れる側はパワーを使うのだ。(※余談1)

 ただ、読書をしない人を認められない人も存在していることを自分のtwitterのTLでさわさわしている言論群から確認することとなった。「読書」という行為そのものだけが正しいだろうか?

 私が読書をしていてつくづく感じるのは自分自身の未熟さや至らなさ、知識や教養のなさが多い。本を読み続けて知ることでさらに知らないことが増え、自分の知らないことの多さに恥ずかしくなる。なので大学二年生の夏ごろからずっと自分の尊敬している人が教えてくれた基準で本を読み続けている。知ることで知らないことを知ったつもりになる自分の恥ずかしさも多く経験しているし、未だに知ったかぶりを起こしては反省するような生活をする。そしてまた自分の未熟さを痛感して本を読む。

 そこに見下すべき他者は存在しない。読書をしない人に対して嘲笑するような読書家を見ると、何と争っているのかと感じることが多い。読書をしない選択をしている人は、読書以外で教養を得る手段を持っている可能性があるというのに、読書だけが正義ということもないだろう。個人的にはそのようなムーブメントが起きている現状に対してとても悲しい気持ちになる。私の見解としては読書をする人がわざわざ読書をしない人に対立を生むような発言をすることに疑問を持っている。それが私の意識としては美しく感じられない。その人たちにとって美しい行為なのかもしれないので、それをすべて否定するわけにはいかないけれど、お互いの良さを認識できないものなのであろうか。

 最後に、私が最近好きなジョン・ロックの言葉に以下のものがある。

「読書は単に知識の材料を提供するだけである。それを自分のものにするのは思索の力である」
読書単体は知識でしかない。知識を得た先に豊かな人生を歩むためには、思索をして自分の考え方の血肉にして視野を広げること。ようやくその本の役割が果たせたとも言えるのではないか。私は教養自体が豊かな人生を歩むための考え方の材料に過ぎないと思う。(※余談2)

【余談】

余談1: 人の勧めはとりあえずすべて手を出す人間なのはかなり特殊だと自覚している(私個人はとりあえずやってみることが多い)。こうした勧められたものに手を出す動機の見解としては、色んな文化的なものに手を出すことでそれを好きな人間の考え方や話題が欲しいと思うからである。後は食わず嫌いで知らないままで好きだったら嫌なのでとりあえず全部やってみていることも多い。

余談2:日々「修養します」と言い本を読むのは、教養を修めるためには言葉が必要だと思い、自分のやり方として一番効率が良かったのが読書だから本を読むにすぎません。他のやり方もあると思います。