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女性の定義は「人間における雌」のことを指す。哺乳類として子宮をもち子供を身体に持てるのが女性。子供を産むことが「女性」であるのだとするのは、生物的な意味合いでは正しいのだと思う。それは事実だろう。しかし、自分の認識が女性であるが身体が男性として生まれてしまった人が、女性ではないということはないと思っている。自分は色んな出会いをして性別についての疑問がぬぐえないままここまで来ている。女性性とは何か。
Google先生から出てきた女性性の説明 |
今回、女性性=女性らしさと定義して書いていく。女性性=女性らしさ=女性の特徴ということか。
結論から言えば、私が思う女性性は以下の2点である。
高校時代からわたしがわたしを「女性」とくくる行為が正しいのかわからない。そもそもわたしはただの生き物であるのに、人から見られるのは生き物以前に女性であるかと考えてしまう。もちろん生物学的には人間の雌であろう。私が女性らしいとされる服装をするとき、自分は女装をしているのだと思うくらいには女性らしさに対してよくわからない。そういった人間が書いたものである。この考えの私が絶対的に正しいとも思わないけど。
私はかつて出会った「体は男性であるが女性の人」と会話していた時に、性自認について考え続けていたことがある。好きな人は男性で、こころは女性で、体は男性。最初は周りからホモであると思われていたが、彼女は異性として男性を好いていた。勿論、女性は恋愛対象外である。話してみれば身体以外は女性であり、言動が本当にかわいらしかった。その姿は恋する乙女そのものであったし、個人的には「特に差がない」としか思えなかった。あの時の自分は純粋に彼女より女性ではないと思っていた。
そのときに子供を産むという行為ができるか否かだけで性別が決まっている状態に疑問が出てきた。そしてそれは生物として、本能としては間違っていないのであろう。
もし仮に子供の産めない体に生まれた性自認も身体も女性の人がいたとして、その人は自分で子供を産むことができないから男性と認めるのかといわれるとそうではないだろう。子供を産める、それだけが女性なのか。
子供を産む、産まないは大切なのだろうか。多分、本能として子供を作りたいと思う人が多いのだろうと思う。結婚をする目的として子供が欲しいからと考えて、それで相手を見極めて結婚をするのだろう。その時、その人が好きだったとして子供が持てない人だったら愛が消えるの?その時愛した人が子供が持てない人だったらその人は女性ではなかったり、男性ではなかったりと思われるの?別にここで愛を育めなくなるのはその人たちの勝手だと思う。そういう思考を持つ人もいるだろう。
〜性=性質=本来備わっている特徴
らしさ=その物事の特徴
特徴=他と比べ目立つもの
結論から言えば、私が思う女性性は以下の2点である。
- 精神が女性であるならば女性
- 子供のできる身体!=女性
高校時代からわたしがわたしを「女性」とくくる行為が正しいのかわからない。そもそもわたしはただの生き物であるのに、人から見られるのは生き物以前に女性であるかと考えてしまう。もちろん生物学的には人間の雌であろう。私が女性らしいとされる服装をするとき、自分は女装をしているのだと思うくらいには女性らしさに対してよくわからない。そういった人間が書いたものである。この考えの私が絶対的に正しいとも思わないけど。
-以下長文お気持ち表明文-
私はかつて出会った「体は男性であるが女性の人」と会話していた時に、性自認について考え続けていたことがある。好きな人は男性で、こころは女性で、体は男性。最初は周りからホモであると思われていたが、彼女は異性として男性を好いていた。勿論、女性は恋愛対象外である。話してみれば身体以外は女性であり、言動が本当にかわいらしかった。その姿は恋する乙女そのものであったし、個人的には「特に差がない」としか思えなかった。あの時の自分は純粋に彼女より女性ではないと思っていた。
ただ、彼女のような人が体を子供が産めるか否か以外の部分を女性にしたところで、子供が産めないというだけで「おかま」、「ニューハーフ」と呼ぶ風潮もある。女性と呼ぶのではなくニューハーフ。嘲笑しながらおかまという風潮。わたしからこれについて具体的なエピソードを書くつもりはない。今考えるとこの風潮は残酷だと思う。この地点で生物学的に女性ではないため認めないような脆さを感じる部分があった。勿論これは私の抱えている偏見である。
そのときに子供を産むという行為ができるか否かだけで性別が決まっている状態に疑問が出てきた。そしてそれは生物として、本能としては間違っていないのであろう。
もし仮に子供の産めない体に生まれた性自認も身体も女性の人がいたとして、その人は自分で子供を産むことができないから男性と認めるのかといわれるとそうではないだろう。子供を産める、それだけが女性なのか。
子供を産む、産まないは大切なのだろうか。多分、本能として子供を作りたいと思う人が多いのだろうと思う。結婚をする目的として子供が欲しいからと考えて、それで相手を見極めて結婚をするのだろう。その時、その人が好きだったとして子供が持てない人だったら愛が消えるの?その時愛した人が子供が持てない人だったらその人は女性ではなかったり、男性ではなかったりと思われるの?別にここで愛を育めなくなるのはその人たちの勝手だと思う。そういう思考を持つ人もいるだろう。
(わたしはそんなことで相手と別れないと思う。自分の血に対してのこだわりが皆無だし、本当に子供が欲しいであれば養子でええやんと思うので…)
子供が産めたとしても産みたくない人だっているだろうに、そういう人も自認が女性でも男性というのだろうか。性別を 子供が持てるか否か でジャッジするのは「らしさ」とは違うと思う。
スカートが女性性であるならば、スカートを男性がはく国の男性は女性であるのかといわれると否だろう。どうしてスカートを女性性の象徴とする?文化、年代、背景でも女性らしさは変わるというのに。胸があれば女性?胸のある男性だっているのに?
逆に女性らしい服装をしていなければ、肉体も自認も女性であったとしても女性とみられない。服装でらしさを作るだけでラベリングされるというのに、どうして子供が産めるか否かで女性性を判断できるのだ。ここまでジャッジがよくわからないのに。
この自分たちが勝手に決めつけた 女性らしさ はあいまいではないか。子供ができるか否かがジャッジされるところであるが、子供ができない人は性別不明になるわけでもない。だったら、同時に性自認だけ違う人だって女性であり、男性ではないのだろうか。
そこで分けられる理由がわかっていない。
自分自身が女性であると認識しているのであれば、他が何を言おうとその人は女性ではないだろうか。そこでその人を恋愛対象外と思ったり、恋愛対象だと思うかどうかはその人の勝手である。好みは自由だ。だけど、何人も「女性」と自認する当事者の女性らしさを否定する権利を有しているわけではない。
スカートが女性性であるならば、スカートを男性がはく国の男性は女性であるのかといわれると否だろう。どうしてスカートを女性性の象徴とする?文化、年代、背景でも女性らしさは変わるというのに。胸があれば女性?胸のある男性だっているのに?
逆に女性らしい服装をしていなければ、肉体も自認も女性であったとしても女性とみられない。服装でらしさを作るだけでラベリングされるというのに、どうして子供が産めるか否かで女性性を判断できるのだ。ここまでジャッジがよくわからないのに。
この自分たちが勝手に決めつけた 女性らしさ はあいまいではないか。子供ができるか否かがジャッジされるところであるが、子供ができない人は性別不明になるわけでもない。だったら、同時に性自認だけ違う人だって女性であり、男性ではないのだろうか。
そこで分けられる理由がわかっていない。
自分自身が女性であると認識しているのであれば、他が何を言おうとその人は女性ではないだろうか。そこでその人を恋愛対象外と思ったり、恋愛対象だと思うかどうかはその人の勝手である。好みは自由だ。だけど、何人も「女性」と自認する当事者の女性らしさを否定する権利を有しているわけではない。