例えば、自分からすれば数年前の過去の産物を、未だに○○参加者なんだからと言われることもあるが、その過去の○○参加を名乗るほどの実力がなかったと自認する場合、居た堪れなさや恥ずかしさで暴走したくなることがある。
それこそ第三者からすれば○○参加や○△というコミュニティに属している存在に対して、○○の人と言ったり○△ということでイメージを固定した方が、その人に話しかけやすかったり、覚えやすかったりするのは事実なのだろう。コミュニティに参加することで現在進行形だと認知されることは多い。過去の産物やコミュニティで会話する第三者との共通認識が生まれることは否定できない。実際、そうしたコミュニティに所属できているというそれだけで、ビジネス的には良かれと認識されるなんてよくある話である。
過去の産物を産物として利用するのはすごく分かりやすくて、その過去の産物から抽出できたもの(経験則、成長できたもの)を話した方が自分の中では説明がつくものは沢山ある。そのため、全てが全て出さないで隠す必要もない(むしろ、その話題を出さないと自分の説明に辻褄が合わないことがある)ため、それ故に人に対して「過去の○○の話は過去のものでしかないのです」と強く言えるわけでもないのがもどかしくなって困惑してしまう。
ただ、過去のことを過去だと自分では認識していても、他の人からは過去のものだと思われず、現在進行形の肩書になっていたり、それでしか覚えられていなかったりすると当惑して「自分は他のものも持っているのに」とか「自分はそれ以外の部分を見られていないのだろうか」と焦る気持ちも生まれることもあるかもしれない。たまに過去の産物で嫌な気持ちになったり、過去の産物によって言葉を封殺されたりすることはある。
ひとつだけ個人的な見解(極論)をお伝えすれば、その過去のものであると認識しているものを積極的に出してきて、それに参加している、参加していないの部分で対応の変わる人間がいる。そういう人とはあまり関わらない方がメンタルに良かったりもする。
(しかも過去への言及自体は、とてもじゃないが態度の変わる人間の数が多すぎる。)
過去の結果(の中でも特に皮の部分)をみることで強いとか、弱いとか表層的なものによって自分の価値を認識してくる人は、正直自分そのものを見られていないことが多い印章がある(※余談1)。本当に過去の結果と自分の印象を見る場合、その結果だけを見るよりかはその結果に至るまでの葛藤や過程の部分での人間味を見たほうがその人らしくて、その部分に相手のその人を見てくれる人といると個人的には安心する場合が多い。
(ただ、お気づきかと思うけれど、同じものを共有した人間は大切にした方がいい。時が違えど同じ苦労をするはずなので…)
うーん、これは話が広がりすぎて結論が書きにくいんだけど、結論としてはその人柄を見てくれる相手ってのがすごく大切にした方がいい人で、表面的なもので判断しようとしてくる人と関わると結構大変ってことです。表面的な出来事で「あなたの価値はある」とか「あなたの価値なんて」と言ってくる人は、話していて大変疲れるので、内面を見てくれて楽しく話せる人はとても大切にしたらいいと思います。(小並感)
20分で書いたので言論が雑。
【余談】
余談1→学部時代にセキュ某に参加した後、大学に帰ると自分は何も変わっていないはずなのに、周りの態度が180度ほど変わったケースがある。それこそセキュ某に参加する前は「できないくせに」と馬鹿にされることが多かったが、セキュ某に参加したというただそれだけを見られて「プロ」とか「つよいひと」と言われたことがある。事実としてわたしは行く前も行った後もできない人間であった。また、セキュ某へ行ってから性格が90度くらい変わったため、その時の人々の持ち上げ方に気持ち悪さを感じ、人の態度が露骨に変わったことで人間不信に陥った。その時に態度を変えなかった数人以外との連絡手段を遮断したことがある。2016年以前から知り合いで、今も親しい人はその時に態度が変わらなかった人間しかいない。2016年に自分の周りの人間を切り捨てすぎた。本当に極端なので…
(就活後から会社名などを言わないようにして態度を変えられないように努力したが、教授が会社名を言うと聞いた他者の態度が変わることがあってメンヘラになったことはある)