直治の印象
斜陽の直治は「不良ぶり、庶民と仲良くしたかった貴族」で、不良からも貴族からも疎まれる孤独の末ある人へ恋を抱いてから、葛藤の末に自殺する。庶民と仲良くしたいけど、本当は根からの庶民らしい遊びは苦手で、おそらく立ち振る舞いから上品さが抜けなかったのだろうと遺書から感じられる。庶民と仲良くするにも貴族という抗えない血が邪魔をして、輪の中に入ってもどこか壁を感じる。貴族であるというそれだけの理由で、個を見られていないような無限の孤独感。そうしていくうちに生きる希望が失われてしまい、生きたいと願い更に荒れたとしても死ぬしかなくなる。
(彼の本棚から共産主義的な本がたくさんあるのは納得がいく話だった。そして、それが同時に衝動への言語化になりうるものだったのではないかと考えるととても切ない。)
(彼の本棚から共産主義的な本がたくさんあるのは納得がいく話だった。そして、それが同時に衝動への言語化になりうるものだったのではないかと考えるととても切ない。)
人から尊敬されようと思わぬ人たちと遊びたい。
けれども、そんないい人たちは、僕と遊んでくれやしない。
アヘンと葛藤していた時の彼の日記の引用であるが、これを見た瞬間から「同じものを抱えている」と同類を見た気持ちになった。彼がそうしてアヘンに逃げたのも気持ちが分かる…彼もまた学んで考えすぎる人なので、考えないためにも脳を溶かすものを摂取して考えを抑制するしか逃げ道がないような、救いを他から貰えるわけもないためそういう依存の仕方をせざるを得なくなる。本心はやりたくもないけど、心の均等のために行わないとバランスが崩れてしまう、そういった破滅衝動を抱え込むことがどれほど苦しいかを考えると共感で胸が潰れそうになる。
彼の葛藤は立場は違えど、ここ数年の自分と同じ葛藤だった。
僕には、希望の地盤が無いんです。さようなら。
(中略)
姉さん。
僕は、貴族です。
読み終えた時、この言葉がわたしにはこの葛藤には救いはないと決められてしまっているように感じて、救いのなさに呆然と2時間くらい考えてしまった。
自分の葛藤でアレソレ
自分は彼とは違い逆の立場でしかないけれど、わたしはもともと育ちが悪く大学で努力し続けていたら、ようやく素敵な人たちが周りに現れ始めた。努力した先にいた周りは話を聞けばみんな親が大卒で教養があるようで豊かな文化的資本を抱えている。親から精神的な虐待など受けてませんみたいな過去に暗がりのない真っ直ぐな人たちで眩しく感じる(それは偽であり、悲しみを乗り越えたのでしょう)。この四年の出会いはほとんどの人が育ちの良さの見える人たちである。わたしは最近出会う人たち全てに憧れを持ち、こういう人といられると幸せなのだろうと思うものの、上品な人たちの周りにいてボロを出すと育ちの悪さが出てきてしまい孤独感に苛まれる。
だからといってもとの育ちの悪いコミュニティに帰りたくもない。気が合わなくてそわそわしていました。そのコミュニティで探した友人達は豊かな人が多く、友人達と話せていて幸せ(むしろわたしなんかと話してくれることに申し訳なさもある)だけれど、友人以外のコミュニティの人間達を思い返すとそのコミュニティにかえることで変な疎まれ方をされる。
(わたしは育ちと環境で安定感が欠落していることを自認しているため、穏やかで安定感のあるものにせめて表面的には見せようとは努めるが、余裕がなくなるとボロが出る)
自分が誰にでも惚れ症というのも意外と偽で、現実はこうして今現在成り行きで出会う人たちは全員魅力的なので気を張らないと常に惚れてしまう。というのも、元のコミュニティでは惚れ症な状態には全くならなかったので…昔から憧れていた理想的な人間たちが目の前で大量に鎮座しているのは、それはそうなんだけど…ただ、仕事の関係で出会った人間に惚れること自体が嫌で、会社がなければただの魅力のない怠惰な人間であることを証明している感じがしてそれもまた本当に苦しくなる。でも毎回何も考えずに惚れられたら幸せなんだろうと思う。でも惚れるという場合、その対象が存在するので対象が嫌な思いをするのは避けたい。自分は友人と思っていた人間から好意を抱かれたら嫌だと思ってしまうから。
そうこう考えているうちに自分はまだまだ思考が浅いなあと思い、更に哲学や古典を学び続ける。しかし、学んだところで自分自身の浅さが露呈して、焦って悲しんで苦しむしかない。でもこうしないと少しでも近づけない気がして、葛藤しながらも学ぶ。
結局自分には圧倒的に何も足りないと感じ、それについて更に焦る。そして、足りない部分を学び続けても、いくら視点が豊かになったり考え方がどんどんとよろしくなったりしたとしても、一向に彼らの文化と相容れない。どうしても彼らの好きなもの、おすすめのもの、色んなものを共有してもらって、いろいろと触れてみて、芸術でもなんでも展覧会はチェックしてと生きているけど、結局僕は透明な壁の中で外の世界を眺めるだけに過ぎないような感覚に陥る。その外の世界はパノラマのようでいて、どことなくおもちゃのように感じながら、自分とは関係ないものなのではないかと焦る。ただそれを理解されるはずもない。
救いがない。
たまに自分なんかと話を合わせてくれたり、仲良くしてくれたりする奇特な人間が現れるが、そういう人と話していて楽しいけれど、自分なんかが話す価値など…と考えてしまう。ありがたいし、仲良くなりたいのにそれに対して「お前が親しくしようとするのは自己愛でしかない。相手のことなど考えられていないのだ。」と心の中に飼う哲学者が嘲りながら笑い始める。たまに仲良く話してると惚れ症を拗らせているため、惚れそうになるからその点のバランスをとるために自己分析に哲学の本や過去の経験を使うことで自分に対してセーブをかける。それで破滅への衝動との距離感を保つ。親しくしようとするたびにからまわると、どんどんとクソ野郎の方がお似合いだと自分に言い聞かせてしまうこともある。
その部分を触ってきたのが斜陽の上原と直治の関係性で、上原はは根っからのクソ野郎だったけど、彼は上原しか選べなかったんじゃないかとも思える。それ故に初めて直治を見た時の衝撃たるや、これは本当に仲間を見るようなもので、彼の破滅衝動の末路は上原になりそこからまた狂ったんだろうと失礼ながら同情してしまった。
破滅に向かわないと、破滅への衝動にかられないと、早々に死を迎えないと、こうした自己を肯定できない自分を許すことができないのであろうか。壁の向こうを知りたい欲はあるのに、それが許されていないのではないかと焦っても意味はないのに。
いつになれば自分が血のことで葛藤して、血から反抗するためにあがいて、そのうちにあがいてもその血の部分は揺るがない。いくら言葉を得ても、共産主義的思考とかマルクスの言葉が自分を救ってくれるわけではない。結局最後は「僕は貴族です」と自殺した直治のように、取り繕っても自分は卑しい人間だったと認めて自殺をしたいわけではないのに、行きつく先の救いがそれしかないのかと苦しい。もし、直治が救われていたら自分は救われていたのかと思うと救われていなかったとは思うが、自分を救うためには救いが必要なのだろうと思える。○○も救われた、というような実績があれば安心するのに。そのための言葉が必要だ。知らないから空虚なのかもしれない。