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2020年5月29日金曜日

差別意識の発露

これは本当に自分自身が最低であるという自覚をしたとともに、それに恥じている次第ではあるが………

自分が無自覚でそれゆえに内在する差別意識が発露し、その結果として人を傷つけた事実を慮ると、どうしても自分の差別意識に対しての気持ち悪さがにじみ出て自己嫌悪でいっぱいになる。差別意識自体が無自覚であったことも一因ではあるが、自分が差別意識を持っている人間であることを自覚した瞬間の嫌悪感と罪悪感は筆舌しがたい。

自分自身が無自覚に差別心を持っていると考えると、自分自身が今まで無自覚に差別的な発言をしていたのではないかと考えられる。その途端にどれだけの人を自分は今まで傷つけたのだろうと思うと、その人たちの悲しさや憤りを思えば胸がつぶれる思いである。

そして、自分がその無自覚な差別的な言葉を表現することで、自分が差別意識を増長し、差別に加担していた事実を考えるとなんと卑しくて醜いものであろうか。指摘してくれた人の言葉がなかったらまだこの言葉を続けていたのであろうかと思うとゾッとする。

今、こうして自覚をしたことが自分にとっては幸いであった。未来に行わないようにして被害者を最小限にとどめることができたことはありがたいことである。こういった方向に持っていこうとできたのは、指摘をしてくれる人の存在があってこそである。恵まれているからこそ、こうして指摘してくれる人がいることを再度確認することができたので、これは心から感謝しかない。

おそらく、これまでもこれからも申し訳ないと言葉を出すが、この申し訳なさは許されたいわけではなく、精いっぱいの罪の自覚と懺悔であり、この差別意識そのものを当事者からは絶対に許されたくはない。許すという行為が一種の被害者側から出るあきらめのような、そういった被害を受けた側の慈愛から生まれるものであると思うので、そんな労力を自分なんかに割いてはほしくない。

罪の懺悔を許す行為は、それは非常にパワーを使うため、当事者の方にそんなことに力を使わせるより「この卑しい人間にはもうかかわらないでおこう」と空気を見るように思ってもらったほうが、その人の身になるのではないかとも感じる。差別を仕向けた人間へ関わろうと思うとそれは恐らくどうしようもない精神のすり減りと向き合わなければならないであろうし、自分自身にはその体力を相手に使わせるほどの人間性を持っているわけではない。

この問題の極めつけは、自分の無自覚に抱えている差別の目と向き合わなければならないと思い、そのためにも言葉を欲し、何らかの本を読もうと思っても結局そうしたときに参考になりそうな本が見当たらないことである。人間性のできていない自分が23歳にしてようやく差別意識と向き合ったことがないからか調べ方がわからなくて、読みたいと思える本が目の前にない。タイトルや表紙から煽り続ける最も求めていない本しか目の前に現れない。自分が如何にその点で怠惰を極めていたかとさらに自分に対しての愚かさを痛感する次第だった。

追伸:こうした無自覚な差別発言を行ってしまったことで自覚したことは、差別発言であるということ自体をそもそも認知していなかったという愚かな事実がある。そして、指摘されなければ差別意識がないとは恐ろしいことである。無知を言い訳にしたくないので学ぶつもりではあるが、無知に対する恐怖を感じる部分があった。