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2020年5月27日水曜日

人生とは刹那的なのではないかと

100年は長いようで短い。人間が個人的な人生を歩む上で100年は長い。しかし、歴史で考えると100年はあっという間である。

ちょうど第一次世界大戦が100年近く前で、そのときにはまだ戦争の手段が馬も用いられていた。今や無人飛行…ドローンで敵地へ爆撃が可能な時代であるし、先日報道されたように通信を妨害してサイバー攻撃で嘘の情報を流して敵を殺すことだってできる。そう考えると100年で技術の進歩がめざましい。

それ以上に藤原道長の時代が1000年前と考えると、1000年前の人たちがまさかこんな文明になっていると想像がついていなかっただろうとも思う。藤原道長が京都で雅を追い求めていたり、京都の恋は顔が見えない相手との文通で決まっていたりする中、まさか1000年後には世界の顔の見えなくて知らない人とやりとりをして繋がっているとは思うまい。

1000年前から紙も電子媒体に置き換わり、物理的にあるのがないのかわからない状態になるなんて、想像がつくものだろうか。わたしが1000年前の人間だったとしてイメージはなかったと思う。

そう考えると、我々が3000年の時代に対して何もイメージがつかないことは当たり前ではあるけれど、更に凄まじい発展をしているのだと思うと、なんだかゾクゾクするものを感じるし、それを見ることが叶わないことは少しだけ寂しい。

時代の進歩を見ることができるのは、生きている人間の特権である。死んだ人間、過去の人間には生きているからこそ獲得できるその権利がなく叶わない。この未来を見る権利は過去の人間が喉から手を出すほど欲するものであると考える。未知であるがゆえに、未知に対しての好奇心がくすぐられるだろう。それを欲する人は過去も現在も多いと思う。でなければ、死を考える人がここまで世界に多いはずもない(主語がデカァイ!)。

未来を見る権利を有効活用するためにも修養し、考えながらその出来事に対して判断しながら見ることができたら、未来を欲していたが亡くなった人たちの分も(その人たちな言論を頭にインプットしながら)有用に覗くことができるのではないかと思う。それは未熟なわたしにはこれが本当であるかはわからないけれど。

そう色々と考えていると、人生とは刹那的なのではないかと思わせられるものであった。