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2020年5月25日月曜日

厚意に好意を抱く行為がどことなく虚無に感じる

ただ、タイトルで韻を踏みたかっただけに過ぎないけれど、意見を書くことをやっていこうと思う。頭の中で一瞬、「好意」と「厚意」と「行為」が出てきて文章にしたらこんなことになった。

それこそちょろい人間なので、厚意を与えらえると好意を抱くことがある。しかし、厚意を与えられているとき、人は親切心にすぎず、この場合好意を抱くというのは若干失礼なのではないか、と大学4年の終わりの地点で考えていた。

個人的に厚意と好意は似ているようにも感じる。厚意の意味は「思いやりのある心。他人が自分に示してくれた気持ちについていう。厚情。」と書かれている。好意とは「その人にいだく親しみや好ましく思う気持ち。愛情の婉曲的な表現としても用いられる。」という意味であるようだ。

厚意も好意も似ているように感じるからこそ、自分のような人間だと厚意と好意の差がわからない。「この人好きだ」と思っても「ああ、この人は多分厚意なんだろう」と考えると「好意」を抱くことへの嫌悪感が生まれてくる。厚意に対して好意を抱くことが、その人の思いやりへの裏切り行為のように感じられて、それはそれはすごく申し訳ない気持ちになり、その厚意を大切にしようと思えば思うほど、厚意と好意の境界線がわからなくなる。

私は厚意で接していた相手から好意を抱かれたとき、言葉にできない苦しさを自分は抱き、自分はそれを否定する。好意を肯定はするが受け取らない。その時のタイミングで自分自身も激しく傷つき、これでよかったのかと葛藤する。そういう自分の心の動きを理解しているがゆえに、厚意を与えてくれている人に対して好意を抱いたときに自分に対して激しい嫌悪感に包まれる。自分には厚意を与えてきてくれている相手に、好意をぶつけて傷つける権利があるのかと。

以前、厚意を与えてくれた人に好意をぶつけて、「え?」と思われたときに、ああこの人の厚意を裏切ったんだなと実感したとき、自分は厚意に好意を抱く行為に虚無を感じた。

それがたまらなく虚無である。言葉にできない。

厚意と好意をはき違えないようにしなければと常々思う。しかし、そう思うけれど理性的にそう思い続けられるかというのがわからない。早いところ厚意を与えてくる相手に厚意のみで返せるような精神的安定を確保したほうが良いのだろうなと思うけれど、それもまだ先の話だと思う。