私が読書から教養を得ている人間に対してかなり好意的印象があることは否めないが、だからと言って読書をしていないという点だけですべてととらえて否定することは世界を狭めるだけに過ぎないと考える。読書以外でも教養を得られる芸術分野は存在しているわけであるし、そうしたものから得られた感性を大切にしている人間の言葉も素敵だと思う。また現実の世界に存在する人から影響を受けた言葉を大切に考える人もまた、その人の中にある大切なものを信じているわけであるから、そうした大切なものを軸に努力する人も魅力的であると思う。そのような読書以外で得られた魅力のある人間を自分は否定したくない。
例えば、○○さんは読書さえすれば完全な理想的存在であると認めた時、○○さんに読書をしてもらうことを押し付けるのは○○さんの個性を否定することになる。○○さんの読書をしない個性を認めて、別にもいるであろう読書をしている人と接すればそれでよいのではないだろうかと考える。(おそらく)好きな人間に対して自分の理想を押し付ける行為は自己愛でしかない。その人間がある程度受け入れるのであればよいのかもしれないけれど、人のおすすめなどを受け入れる行為は受け入れる側はパワーを使うのだ。(※余談1)
ただ、読書をしない人を認められない人も存在していることを自分のtwitterのTLでさわさわしている言論群から確認することとなった。「読書」という行為そのものだけが正しいだろうか?
私が読書をしていてつくづく感じるのは自分自身の未熟さや至らなさ、知識や教養のなさが多い。本を読み続けて知ることでさらに知らないことが増え、自分の知らないことの多さに恥ずかしくなる。なので大学二年生の夏ごろからずっと自分の尊敬している人が教えてくれた基準で本を読み続けている。知ることで知らないことを知ったつもりになる自分の恥ずかしさも多く経験しているし、未だに知ったかぶりを起こしては反省するような生活をする。そしてまた自分の未熟さを痛感して本を読む。
そこに見下すべき他者は存在しない。読書をしない人に対して嘲笑するような読書家を見ると、何と争っているのかと感じることが多い。読書をしない選択をしている人は、読書以外で教養を得る手段を持っている可能性があるというのに、読書だけが正義ということもないだろう。個人的にはそのようなムーブメントが起きている現状に対してとても悲しい気持ちになる。私の見解としては読書をする人がわざわざ読書をしない人に対立を生むような発言をすることに疑問を持っている。それが私の意識としては美しく感じられない。その人たちにとって美しい行為なのかもしれないので、それをすべて否定するわけにはいかないけれど、お互いの良さを認識できないものなのであろうか。
最後に、私が最近好きなジョン・ロックの言葉に以下のものがある。
「読書は単に知識の材料を提供するだけである。それを自分のものにするのは思索の力である」読書単体は知識でしかない。知識を得た先に豊かな人生を歩むためには、思索をして自分の考え方の血肉にして視野を広げること。ようやくその本の役割が果たせたとも言えるのではないか。私は教養自体が豊かな人生を歩むための考え方の材料に過ぎないと思う。(※余談2)
【余談】
余談1: 人の勧めはとりあえずすべて手を出す人間なのはかなり特殊だと自覚している(私個人はとりあえずやってみることが多い)。こうした勧められたものに手を出す動機の見解としては、色んな文化的なものに手を出すことでそれを好きな人間の考え方や話題が欲しいと思うからである。後は食わず嫌いで知らないままで好きだったら嫌なのでとりあえず全部やってみていることも多い。
余談2:日々「修養します」と言い本を読むのは、教養を修めるためには言葉が必要だと思い、自分のやり方として一番効率が良かったのが読書だから本を読むにすぎません。他のやり方もあると思います。