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2020年9月25日金曜日

何故かGoogle formの回答が反映されないので対策を考えてみた

何故か回答したはずのGoogle formのアンケートが反映されていないという事象を2度も起こし、自分に対して嫌気が酷くなったので、その場しのぎの対処法を載せておきます。

わたしもなんですが、自分を嫌になりたくないじゃん。

当方環境

  • iPhone XS
  • docomo
  • 謎のWi-fi(とても安くて速度が遅い)
  • Safari

Google formの結果が反映されない原因




この画像の表示を見逃すことが挙げられるかもしれません。わたしは基本的にアンケートは脳死で解答してるので、これが出てても無視してしまうのです。

いつ出てるのか見てなかったのでわかりませんでしたが、回答完了画面をみた2秒後に元のページに遷移しています。

原因分析

正直赤いバーが起きる原因を掴めていないので調査中です。

誰かの卒論のためのアンケートを答えました。その人の許可を得ていないので動画は取りませんでしたが、その結果「回答を送った2秒後くらいになぜか赤いバーが表示されている」ことがわかりました。

今回調査のために10件ほど大学生の卒論や企業のアンケートに回答した際、エラーが起きたのは10件中4件ほどでした。ソースは10ですが確率は4割という結果になります。

エラーが起きたのは以下4件です。
  1. sechack365のアンケート
  2. 大学生の卒論(ソシャゲについての調査)
  3. 文系大学院生の卒論(衣服についての調査)
  4. なぜ働いているのかについてのアンケート

Google formを使う以外の共通項はなさそうです。

このiPhoneで脳死回答すると起きている事象なので、社会インフラとしては本気でやめて欲しいんですが、Googleさんに対しての依存を感じましたので自分から対策をねる必要があります。

対策方法

今回、「送信後2秒後にエラー表記が出る」という情報を得たので、以下の対策を検討しました。

  1. 二秒間はアンケート結果が無事であるかを確認する
  2. 送信直後から画面下部に出ている赤いバーが出ているか否かを見ておく
それでも難しいかもしれませんので、もし対策方法があれば教えていただけますと幸いです。

根本的な原因解決の方法は思いつきませんので、Googleさんに解決してもらえることを祈っておきます。

2020年8月25日火曜日

結局天ヶ瀬冬馬は神奈川県の何処出身なのか?

どうも、神奈川県川崎市出身のいわしです。川崎市民でした。はい。

出身地を明かすつもりもなかったんですが、ある理由で明かすことにしました。突然ですが、神奈川県出身の人間って「神奈川県出身」と言わないんですよ。

「横浜出身で…」
「川崎生まれで…」
「湘南出身です」
「鎌倉に住んでて」

だけど彼は神奈川県出身というんですね。それに対して元神奈川県民としては物凄く違和感があるのです。

冬馬くん「神奈川もとおかねえけど、都内にいた方が移動は楽なんだよなぁ…」

天ヶ瀬冬馬くんは神奈川県出身というが実際は何処出身なのだろう?と考察したことがなかったので全力で考察することにします。

天ヶ瀬冬馬の生誕地の予想


個人的には絶対に川崎ではありませんようにという願いはありつつも、色々と分析していきます。

天ヶ瀬冬馬くんといえば


我が推し天ヶ瀬冬馬くんの特徴をあげます。
  1. カレーをスパイスから作る
  2. サッカーが好き
  3. ロボットアニメが好き
  4. 歌が上手
  5. 高校生
  6. 「神奈川県」出身

やはりまいたるのように「hey~僕は横須賀出身だよ☆」でもないし、九郎くんのように「鎌倉です…」と名乗ってるわけでもなく「神奈川出身」が異質だなぁ…とモニョる。

神奈川県でサッカーに力を入れている市町村


実は神奈川県は「サッカー」に力を入れている県です。冬馬くんは幼い頃からこうした神奈川県のムーブメントに揉まれて今の冬馬くんが形成されたのでしょう。

神奈川のサッカーですが!!!!!!全国で一番「「「Jリーグ」」」のチームが多いのは神奈川県!!!!6チームあります!!!!!

サッカー王国である静岡が一番じゃないんですね。

特にサッカーの熱の目立つのは以下の市町村というかチームというか。
  • 横浜市
  • 川崎市
  • 相模原市
  • 湘南ベルマーレ(南の方の市の集合体)

この中で特に熱いJ1を抱えているのが横浜市(横浜マリノス)、川崎市(川崎フロンターレ)。川崎はフロンターレに対しての熱がすごいですし、横浜市民も知り合いはマリノスを応援してる人が多かった印象です。

「神奈川」出身という発言


さっきから五十回くらい言ってます(オタク特有のクソでか表現)が、神奈川の人間って市をいうと思うんです。

自分は地元川崎の記憶を捨てたいレベルなんですが、だからこそ川崎出身というのが非常に恥ずかしく思っています。現在関西の企業で勤めているのですが、人には「神奈川出身」と言っていて何人にも「あれ、神奈川県民って○○市って言わない?」と聞かれて、恥ずかしくなりながら「アッアッ……川崎です…」ってやっています。

実は天ヶ瀬冬馬くんも「その類」に見えるんですよね。

これは経験の話ですが神奈川県の色んな市から高校には集結していましたが、横浜出身の人はどの区であったとしても横浜出身と言いがちな印象を受けていて、仮に冬馬くんが神奈川県出身でも「神奈川県出身」と名乗るのは横浜出身ではないという可能性が高いと考えています。

ってかなんとなく口調が弊市出身感あるんですがそれは…

天ヶ瀬冬馬の発言から推察


天ヶ瀬冬馬くんは神奈川の何処出身なのかを考察する上で地域柄を考えるのは意外と有りだと思うのでやってみる。

おそらく横須賀出身ではない


横須賀観光、すっかり堪能しちまったな

地元民ならこれは言わないですよね…というかJupiterで冬馬のお部屋いってるし、もし観光するならその前からしているはずです。





横須賀出身であればこの画像の発言はしないと思われます。何故なら横須賀市民なら地元なので、地元民なら気になればすぐに研究しに行くからです。

遠かねえけど…


「神奈川もとおかねえけど都内にいた方が移動は楽」

遠かねえ→東京都内に近い神奈川県の地域の可能性が高い。

元神奈川県民として考える「都内への移動が難しい」地域








丸で囲ったエリアは「とおかねえけど…」というには都内に出るには遠すぎます。小田原近郊になるともはや都内に出るためのエネルギーは静岡レベルの高さです。おそらく発言を推察する限り、小田原や湯河原、三浦の人ではないでしょう。まあ、車があれば高速道路を使うんでしょうが…。交通の弁が悪い為、年齢的に免許を持っているわけではない天ヶ瀬冬馬くんには電車などを駆使していくのではないか(いや、もちろんPが送迎もあるだろうけど)と考えるばかりです。

天ヶ瀬冬馬くんのお父さんの話は全然出てきませんが、お父さんが職場が東京と仮定して家のローンを浮かせるために交通費全額支給の会社で小田原を選んでいたとしても「とおかねえ」と言えるかという話ではあります。多分本当に近いからこそJupiterの3人は冬馬くんの部屋でカレーを食べに集まれているのであるのだと思っています。

門前仲町へのいきやすさを考える


アニメとMステ設定かもしれませんが、315プロは東京都内…門前仲町にあります。門前仲町に行きやすいを都内へのいきやすさとしての指標として見ていこうと思います。客観的に見たいので全ての駅を最短時間にしています。

横浜→門前仲町 48分



川崎→門前仲町 38分



相模原→門前仲町 1時間21分




なんとなくですが、私はこうやって出してみると「相模原ではないのでは…?」というような考えに至ります。正直神奈川出身としては相模原在住だと門仲へ行きにくすぎますし、そもそもJupiter三人でカレーを食べ集まるにも立地が悪い気がします。

ほっくんは京都出身ですし一人暮らしで冬馬君が何処であったとしても合わせられそうですが、翔太くんは東京都民(おそらくオフショ的に実家暮らし)であることを考えれば、自ずと見えるかもしれません。まって…何処だろう…




↑カレーを冬馬の部屋で食べる図

なんか、なんとなくなんですけど、川崎出身な気がしているのです。なんか私は推しと地元が一緒な気がするんです。そうなると川崎説に対しての若干の反証を提供しないと説得力がでません。

ヤンキーはそれほど知らない


「正直いうとヤンキーについてはよく知らねえんだ」

「仮に川崎出身ならヤンキー知ってそうでは?」ということを考えそうですが、面白いことに川崎は治安の良い地域と悪い地域があります。具体的に川崎でヤンキーの生息する地域というと、川崎区と幸区が当てはまると思います。世間一般の「「「川崎」」」はこの2区だと思えば大体大丈夫です。仮に川崎出身かつヤンキーを知らない場合、可能性としては中原区から以北出身であるという可能性が高いです。

例えば、治安の良い地域を選ぶとしたら以下の川崎市の地域を選ぶことができます。

  • 再開発されている武蔵小杉近郊
  • 高級住宅街の新百合ヶ丘出身

ここでまた「門前仲町までの電車」を考えてみようと思います。天ヶ瀬冬馬が電車にいたらびっくりするので車で通勤して欲しいけどさ…。

武蔵小杉→門前仲町  37分




新百合ヶ丘→門前仲町 58分




新百合ヶ丘だと若干電車だと遠い感じするけど無理はない…はず。

武蔵小杉だと門前仲町への最短が横須賀線なので時間の融通を考えると非常に不便だと思いますが、都内への移動はかなり楽だと思います。
(路線としては東急東横線、目黒線、横須賀線、湘南新宿ライン、南武線、直通で相鉄線)

武蔵小杉は「神奈川も遠かねえけど都内の方が移動は楽」の最適解に見えます(暴論)

また武蔵小杉出身であると、川崎フロンターレの良く使うスタジアムである等々力球場も近いので、幼いころにサッカーを観に行く経験があった場合は新百合ヶ丘よりも現実的な距離で両親と行くことができたのではないかと考えています。

ということで(?)、個人的な仮説検証としては天ヶ瀬冬馬君は神奈川県川崎市中原区武蔵小杉出身ということにしました。ずいぶんとローカルな感じがしますw

2020年8月14日金曜日

生きる価値と貢献について

久しぶりに意見を書こうと思ってようやく開けて少しだけ書いている。

数ヶ月ほど私なりに本気で考え続けていたものの言語化である。私はこれを結論づけられた自分は一仕事終えられたのではないかというくらいに成長を感じる。

まず第一に自分の生きる価値について考えていた。哲学者は生きる価値について答えを出すかと思い、安易なのでショウペンハウエル先生の「自殺について」やら「孤独と人生」やらを読んでいた。ショウペンハウエル先生の著者を読んでから貢献などを行うほどの価値があれば生きていていいだろうと考えた。

そこで自分ができる貢献について考えていた。その中で色んな情景が出てきて、誰かに対して自分は貢献をせずに迷惑しかかけていないことに気づいた。何に対しても貢献ができず迷惑をかける自分に対して、生きる価値を喪失してると判断していた。そのことが恥ずかしくて心から自殺をしたかった。どこで死ぬと人に迷惑をかけないかと悩み続けていた。

ただ、調べてみるとどこで死んでも誰かに迷惑をかけることがわかり、死ぬことに対して悩んでいた。誰かに迷惑をかけていることを恥じて死にたいのに、死ぬと迷惑をかけるのは二重に恥だと思えて困り果てた。希死念慮の延長線上にあった自殺願望を抱えて、無限に自分の内にある精神と会話し続けていた。それはここ数ヶ月の話である。

この話の結論としては国は自分に生きる価値を感じでいるだろうということである。というのも、年金や税金をこれから先払うのは今のところは若い私であるし、そういうことを思うと今死ぬと国の税金的な意味では生きててくれと思っている人間がこの世に一ミリはいるだろうということでギリギリ生きていようと思った。それでもまだ貢献ができないと思うのであれば、献血で血を分ければ失血した誰かを助けられる可能性もあると思う。生きる価値について考え始めてから献血もしているが、生きてていいように感じられるので、献血は私を生かしてくれている要因の一つである。

この最初のネガティブな話は前座であり、もう少し貢献についての話をしていこうと思う。

先日、いろんな人たちがいろんな結果を残したり、自分が憧れるようなものに対してアレソレしてたりしているのを見ていた。純粋に自分はそれに対して素晴らしいと思う心もあったのだけど、それ以上に焦りが生まれていた。いつもこいつ焦ってんなって感じだけど。

「周りは先に進んでいる、自分は立ち止まってるだけに過ぎないのではないか」と焦燥感で生きた心地が皆無であったのだ。

(そういう進んでる人たちに素直に応援とかできてないことも、自分自身が本当に人望がない人間であると思うところもあった。)

自分はそうやって行動してる人たちに対して何かを提供できているわけでもないし、特に彼らに協力のできる人間ではないなと思うと自分の無力さに対して嘆くところではあったが、最近はそうした貢献をしていないと嘆く自分に対して傲慢であると思うようにもなった。

というのも、貢献とは自分が求めるものではなくて自分が誰かに恥じない生き方をしていれば自然と湧き出すものである…。自分は修行中の身であるため、誰かに迷惑をかけることはあれど、誰かに対して貢献できていないと痛感していた。

事実として他者に対して貢献できていない部分は否定できないし、何かに対しての貢献について死ぬ気で考えてその身の振り方についてかなり考え続けていたお盆であった。そもそも修行中に貢献なんて出来るのであれば、私は修行をする意味がない。

そこでの今の段階では「自分が何かを提供できることに対しての貢献とは、誰かから求められたものでしかない」という考えが結論になった。

そう、誰かに対して貢献することは生きる価値にはなるだろうけれど、貢献は自分がしたいと思って湧き出るものではない。そうやって貢献したいとやろうとするのはなんというか気持ちの押し付けにすぎないのだ。

焦って貢献したいと思うのは自分の無力を露骨に出しているように感じるし、本当に貢献のできる人はできることに対して愚直に取り組む姿勢を貫くだろう。これは私の負の要素や恥ずかしいものと向き合い続けた結果一つの光として生まれた考えであるけれど、合っていると言えるかは分からないがそれほど間違ってはいないと思う。

自分は特にsechack365においては「貢献がしたい」という願望を持ってやっていたように思う。しかし、貢献とは誰かが何かを求めているときに自分の持っているものを差し出すことである。自分から貢献を探すのは自分の持ってないものでアレソレしようとしている感じがして、それって違うような気がしてきた。

今年24歳でこれに気づくのは正直に遅くないかと、自分でも少々恥ずかしいところがある。

わたしの神様にして推しである天ヶ瀬冬馬くんはよく「うまく行かねえ時はプロデューサーがいるだけで心強いんだ」と発するのであるが、それは普段のプロデューサーの行動が天ヶ瀬冬馬くんに対して信頼をしているからこそ出た言葉であろう。信頼をしていないものに対して背中を預けることはできないし、貢献って信頼から生まれるものなのではないかと考え続けていた。

しかし、そう考えると自分の貢献はまだまだ志半ばで本当に自分以外のもののおかげで成り立っていて、自分は何もできておらず貢献を語るに及ばない人間であるように感じる次第である。

自分の行動を恥じて貢献などいう前に「実直に締め切りを守ることだけをした方がいいんじゃないかな?」と冷静になった。こう書いていてなんだかとても恥ずかしい。

信用を得てない内からその先のことに対して心配をするのはなんだか「応用ばかりやって基礎をこなすつもりのない人」の発言であった。基礎は一番大切なものである。基礎をやる前に応用はできない。

2020年7月18日土曜日

好きな人に好きと言えることは当たり前ではない

好きな人に伝わる形で好きという権利は当たり前のように有し続けられると思ったら間違いである。歴史とアニメ好きからすれば、推しや好きな人間が同じ時代、同じ次元であることは当たり前ではなくて割と本気で奇跡に等しい。

好きな人が亡くなったり、トラブルで2度と言えなくなる状況になったりする可能性を考慮できていない(※余談1)。乱数のごとく突発的に自分の推しに直接的にお金を落とすことができなくなる状態は、ある日突然起きてしまうのである。亡くなるというのもパターンは存在し、天寿を全うしたり、ストレスの末重い病気を繰り返しながら夭折する人もいたり、自殺する人もいる。

この亡くなるという自然界に生きている限り起きてしまう現象で、この自殺だけ間違っているといわれがちである。まず、本当に追い詰められると自殺するための挙動を無意識に行うことがある。例えば、筆者がストーカー被害にあっていた際「電車のきそうになる線路に惹かれてその方面に夢中で歩き始める」ことがあり、それで線路に自覚症状なく飛び込もうとしていた。ある出来事で意識を取り戻したときに飛び込まずに済んだが、気づいたら死に無意識で向かうことは、自然界で死期を悟り自殺する生き物(鳥類)と同じような状態なのかもしれない。

自殺という選択肢は一方向で見れば間違いではない。それこそ自分で覚悟を決めて選択した答えと行動を全否定するような言葉もまた追い詰める言葉に感じる。選択自体が間違っていたと否定してしまうと、その人の最後の最後まで葛藤していた何かすらも否定しているような気がしてならない。自殺は不幸であると思う我々の道徳観からすれば、正しい意見を伝えている善意に過ぎないだろうが、この善意こそが人を追い詰めるのかもしれないと考えながら今日の晩御飯を食べ損ねた。

自殺した方のニュースを見て、2か月前にもお気持ちを表明していたことをなんとなく思い返しつつ、色々とぼんやり考えていた。永遠のゼロの映画を見た時にちょうど当該人物も出演されていたため、印象がその時のものは残っている。芸能人をそんなに知らない私ですら名前を知ってるようなレベルの若手の超有名人が亡くなったとは何事があったのかと心配になる。彼にも彼なりの悩みがあって、いろんな立場や葛藤がひしめいて、その辛さを1人で抱え込みすぎたのかと思えてしまう。

国民的に知られた有名人とか恵まれている立場とか人をうらやむことは簡単にできるけど、その立場ごとに悩みは尽きないものだし、人間に生まれた以上考えてしまうのだし悩まないはずない、と私は思い込んでいる。当該人物もそうであったのだろうと考えながらニュースを見た。

悩み続けて本気で苦しすぎると逆に相談できなくなるのはわかる。もはや誰にも言えなくなるくらいしんどくて、そうなった時は自分が害悪を振りまくことを覚悟の上でヘルプを出すしかない。実は害悪だと自分が思い込んでいるだけで、そうではないことが多い。実は周りは相談を受けられなくて亡くなったことを非常に思い悩みながら今後を過ごすのであれば、ヘルプを聞きたいだろうし、そう言った死んだ後の未来の仲間が「聞きたかった」と泣くくらいなら、害悪ですが聞いてくれと騒いだほうが良い。…彼は非常に優しくて周りのことを考えてしまって、ヘルプが出せなかったのかもしれないけど。

ただ、それは事実であるとは言えず、本当に客観的な情報がないため妄想でしかないのだけど。

これは三次元の知り合いにも適応できる話である。生きている好きな人に好きと言えるのは当たり前のことではない。その人が突発的に亡くなることも勿論あるが、事情で何も言えなくなるのは可能性も高い。その相手が引っ越して転校やら転職していき、距離感が遠くなってしまい言えなくなることもある。両親の離婚を見て、相手を大切に扱って尊重し合えなければ仮に結婚当時は好きな人とも離婚をするというものを見てしまったのである。

結論は「好きな人には言える時に積極的に好きと言いに行こうぜ!推しが亡くなってから言わなかったからと後悔したくないじゃん?」。

推しが生きているタイミングで好きなところや好きなことを伝えたり、推しに会いに行ったりしないと亡くなった後に絶対に後悔する。わたしは西城秀樹さんのライブに行かなくて、推しの最初で最後のリアルイベントが彼の葬式になったしまった人である。それがどれだけ苦しくて、どれだけ悲しかったかと思うと当時を思い出したくないレベルである。推しは推せるときに推しとけ。

彼に、西城秀樹さんのブルースカイブルーを捧ぐ。

余談


余談1: 推しを勝手に長生きするものであろうと高を括ってしまうのは非常に暴力的な結論で推しに期待をしているだけに過ぎないのではないか。そんな状態で急に亡くなった記事を見るときの衝撃たるや最初は頭が混乱し、動揺してそのニュースが真であるか否かを調べ、本当であることを確認してから現実を直視して泣くことしかできなくなる。

2020年7月8日水曜日

私の思う女性性と女性性についての疑問

あまりにもセンシティブすぎて、数週間前に記事はできていたけど、何度も何度も推敲した。それにしては内容が薄いかもしれない。

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女性の定義は「人間における雌」のことを指す。哺乳類として子宮をもち子供を身体に持てるのが女性。子供を産むことが「女性」であるのだとするのは、生物的な意味合いでは正しいのだと思う。それは事実だろう。しかし、自分の認識が女性であるが身体が男性として生まれてしまった人が、女性ではないということはないと思っている。自分は色んな出会いをして性別についての疑問がぬぐえないままここまで来ている。女性性とは何か。

Google先生から出てきた女性性の説明



今回、女性性=女性らしさと定義して書いていく。女性性=女性らしさ=女性の特徴ということか。

〜性=性質=本来備わっている特徴
らしさ=その物事の特徴
特徴=他と比べ目立つもの

結論から言えば、私が思う女性性は以下の2点である。


  1. 精神が女性であるならば女性
  2. 子供のできる身体!=女性


高校時代からわたしがわたしを「女性」とくくる行為が正しいのかわからない。そもそもわたしはただの生き物であるのに、人から見られるのは生き物以前に女性であるかと考えてしまう。もちろん生物学的には人間の雌であろう。私が女性らしいとされる服装をするとき、自分は女装をしているのだと思うくらいには女性らしさに対してよくわからない。そういった人間が書いたものである。この考えの私が絶対的に正しいとも思わないけど。


-以下長文お気持ち表明文-


私はかつて出会った「体は男性であるが女性の人」と会話していた時に、性自認について考え続けていたことがある。好きな人は男性で、こころは女性で、体は男性。最初は周りからホモであると思われていたが、彼女は異性として男性を好いていた。勿論、女性は恋愛対象外である。話してみれば身体以外は女性であり、言動が本当にかわいらしかった。その姿は恋する乙女そのものであったし、個人的には「特に差がない」としか思えなかった。あの時の自分は純粋に彼女より女性ではないと思っていた。

ただ、彼女のような人が体を子供が産めるか否か以外の部分を女性にしたところで、子供が産めないというだけで「おかま」、「ニューハーフ」と呼ぶ風潮もある。女性と呼ぶのではなくニューハーフ。嘲笑しながらおかまという風潮。わたしからこれについて具体的なエピソードを書くつもりはない。今考えるとこの風潮は残酷だと思う。この地点で生物学的に女性ではないため認めないような脆さを感じる部分があった。勿論これは私の抱えている偏見である。

そのときに子供を産むという行為ができるか否かだけで性別が決まっている状態に疑問が出てきた。そしてそれは生物として、本能としては間違っていないのであろう。

もし仮に子供の産めない体に生まれた性自認も身体も女性の人がいたとして、その人は自分で子供を産むことができないから男性と認めるのかといわれるとそうではないだろう。子供を産める、それだけが女性なのか。

子供を産む、産まないは大切なのだろうか。多分、本能として子供を作りたいと思う人が多いのだろうと思う。結婚をする目的として子供が欲しいからと考えて、それで相手を見極めて結婚をするのだろう。その時、その人が好きだったとして子供が持てない人だったら愛が消えるの?その時愛した人が子供が持てない人だったらその人は女性ではなかったり、男性ではなかったりと思われるの?別にここで愛を育めなくなるのはその人たちの勝手だと思う。そういう思考を持つ人もいるだろう。

(わたしはそんなことで相手と別れないと思う。自分の血に対してのこだわりが皆無だし、本当に子供が欲しいであれば養子でええやんと思うので…)

子供が産めたとしても産みたくない人だっているだろうに、そういう人も自認が女性でも男性というのだろうか。性別を 子供が持てるか否か でジャッジするのは「らしさ」とは違うと思う。

スカートが女性性であるならば、スカートを男性がはく国の男性は女性であるのかといわれると否だろう。どうしてスカートを女性性の象徴とする?文化、年代、背景でも女性らしさは変わるというのに。胸があれば女性?胸のある男性だっているのに?

逆に女性らしい服装をしていなければ、肉体も自認も女性であったとしても女性とみられない。服装でらしさを作るだけでラベリングされるというのに、どうして子供が産めるか否かで女性性を判断できるのだ。ここまでジャッジがよくわからないのに。

この自分たちが勝手に決めつけた 女性らしさ はあいまいではないか。子供ができるか否かがジャッジされるところであるが、子供ができない人は性別不明になるわけでもない。だったら、同時に性自認だけ違う人だって女性であり、男性ではないのだろうか。

そこで分けられる理由がわかっていない。

自分自身が女性であると認識しているのであれば、他が何を言おうとその人は女性ではないだろうか。そこでその人を恋愛対象外と思ったり、恋愛対象だと思うかどうかはその人の勝手である。好みは自由だ。だけど、何人も「女性」と自認する当事者の女性らしさを否定する権利を有しているわけではない。