好きな人が亡くなったり、トラブルで2度と言えなくなる状況になったりする可能性を考慮できていない(※余談1)。乱数のごとく突発的に自分の推しに直接的にお金を落とすことができなくなる状態は、ある日突然起きてしまうのである。亡くなるというのもパターンは存在し、天寿を全うしたり、ストレスの末重い病気を繰り返しながら夭折する人もいたり、自殺する人もいる。
この亡くなるという自然界に生きている限り起きてしまう現象で、この自殺だけ間違っているといわれがちである。まず、本当に追い詰められると自殺するための挙動を無意識に行うことがある。例えば、筆者がストーカー被害にあっていた際「電車のきそうになる線路に惹かれてその方面に夢中で歩き始める」ことがあり、それで線路に自覚症状なく飛び込もうとしていた。ある出来事で意識を取り戻したときに飛び込まずに済んだが、気づいたら死に無意識で向かうことは、自然界で死期を悟り自殺する生き物(鳥類)と同じような状態なのかもしれない。
自殺という選択肢は一方向で見れば間違いではない。それこそ自分で覚悟を決めて選択した答えと行動を全否定するような言葉もまた追い詰める言葉に感じる。選択自体が間違っていたと否定してしまうと、その人の最後の最後まで葛藤していた何かすらも否定しているような気がしてならない。自殺は不幸であると思う我々の道徳観からすれば、正しい意見を伝えている善意に過ぎないだろうが、この善意こそが人を追い詰めるのかもしれないと考えながら今日の晩御飯を食べ損ねた。
自殺した方のニュースを見て、2か月前にもお気持ちを表明していたことをなんとなく思い返しつつ、色々とぼんやり考えていた。永遠のゼロの映画を見た時にちょうど当該人物も出演されていたため、印象がその時のものは残っている。芸能人をそんなに知らない私ですら名前を知ってるようなレベルの若手の超有名人が亡くなったとは何事があったのかと心配になる。彼にも彼なりの悩みがあって、いろんな立場や葛藤がひしめいて、その辛さを1人で抱え込みすぎたのかと思えてしまう。
国民的に知られた有名人とか恵まれている立場とか人をうらやむことは簡単にできるけど、その立場ごとに悩みは尽きないものだし、人間に生まれた以上考えてしまうのだし悩まないはずない、と私は思い込んでいる。当該人物もそうであったのだろうと考えながらニュースを見た。
悩み続けて本気で苦しすぎると逆に相談できなくなるのはわかる。もはや誰にも言えなくなるくらいしんどくて、そうなった時は自分が害悪を振りまくことを覚悟の上でヘルプを出すしかない。実は害悪だと自分が思い込んでいるだけで、そうではないことが多い。実は周りは相談を受けられなくて亡くなったことを非常に思い悩みながら今後を過ごすのであれば、ヘルプを聞きたいだろうし、そう言った死んだ後の未来の仲間が「聞きたかった」と泣くくらいなら、害悪ですが聞いてくれと騒いだほうが良い。…彼は非常に優しくて周りのことを考えてしまって、ヘルプが出せなかったのかもしれないけど。
ただ、それは事実であるとは言えず、本当に客観的な情報がないため妄想でしかないのだけど。
これは三次元の知り合いにも適応できる話である。生きている好きな人に好きと言えるのは当たり前のことではない。その人が突発的に亡くなることも勿論あるが、事情で何も言えなくなるのは可能性も高い。その相手が引っ越して転校やら転職していき、距離感が遠くなってしまい言えなくなることもある。両親の離婚を見て、相手を大切に扱って尊重し合えなければ仮に結婚当時は好きな人とも離婚をするというものを見てしまったのである。
結論は「好きな人には言える時に積極的に好きと言いに行こうぜ!推しが亡くなってから言わなかったからと後悔したくないじゃん?」。
推しが生きているタイミングで好きなところや好きなことを伝えたり、推しに会いに行ったりしないと亡くなった後に絶対に後悔する。わたしは西城秀樹さんのライブに行かなくて、推しの最初で最後のリアルイベントが彼の葬式になったしまった人である。それがどれだけ苦しくて、どれだけ悲しかったかと思うと当時を思い出したくないレベルである。推しは推せるときに推しとけ。
彼に、西城秀樹さんのブルースカイブルーを捧ぐ。
余談1: 推しを勝手に長生きするものであろうと高を括ってしまうのは非常に暴力的な結論で推しに期待をしているだけに過ぎないのではないか。そんな状態で急に亡くなった記事を見るときの衝撃たるや最初は頭が混乱し、動揺してそのニュースが真であるか否かを調べ、本当であることを確認してから現実を直視して泣くことしかできなくなる。
推しが生きているタイミングで好きなところや好きなことを伝えたり、推しに会いに行ったりしないと亡くなった後に絶対に後悔する。わたしは西城秀樹さんのライブに行かなくて、推しの最初で最後のリアルイベントが彼の葬式になったしまった人である。それがどれだけ苦しくて、どれだけ悲しかったかと思うと当時を思い出したくないレベルである。推しは推せるときに推しとけ。
彼に、西城秀樹さんのブルースカイブルーを捧ぐ。
余談
余談1: 推しを勝手に長生きするものであろうと高を括ってしまうのは非常に暴力的な結論で推しに期待をしているだけに過ぎないのではないか。そんな状態で急に亡くなった記事を見るときの衝撃たるや最初は頭が混乱し、動揺してそのニュースが真であるか否かを調べ、本当であることを確認してから現実を直視して泣くことしかできなくなる。