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2020年7月18日土曜日

好きな人に好きと言えることは当たり前ではない

好きな人に伝わる形で好きという権利は当たり前のように有し続けられると思ったら間違いである。歴史とアニメ好きからすれば、推しや好きな人間が同じ時代、同じ次元であることは当たり前ではなくて割と本気で奇跡に等しい。

好きな人が亡くなったり、トラブルで2度と言えなくなる状況になったりする可能性を考慮できていない(※余談1)。乱数のごとく突発的に自分の推しに直接的にお金を落とすことができなくなる状態は、ある日突然起きてしまうのである。亡くなるというのもパターンは存在し、天寿を全うしたり、ストレスの末重い病気を繰り返しながら夭折する人もいたり、自殺する人もいる。

この亡くなるという自然界に生きている限り起きてしまう現象で、この自殺だけ間違っているといわれがちである。まず、本当に追い詰められると自殺するための挙動を無意識に行うことがある。例えば、筆者がストーカー被害にあっていた際「電車のきそうになる線路に惹かれてその方面に夢中で歩き始める」ことがあり、それで線路に自覚症状なく飛び込もうとしていた。ある出来事で意識を取り戻したときに飛び込まずに済んだが、気づいたら死に無意識で向かうことは、自然界で死期を悟り自殺する生き物(鳥類)と同じような状態なのかもしれない。

自殺という選択肢は一方向で見れば間違いではない。それこそ自分で覚悟を決めて選択した答えと行動を全否定するような言葉もまた追い詰める言葉に感じる。選択自体が間違っていたと否定してしまうと、その人の最後の最後まで葛藤していた何かすらも否定しているような気がしてならない。自殺は不幸であると思う我々の道徳観からすれば、正しい意見を伝えている善意に過ぎないだろうが、この善意こそが人を追い詰めるのかもしれないと考えながら今日の晩御飯を食べ損ねた。

自殺した方のニュースを見て、2か月前にもお気持ちを表明していたことをなんとなく思い返しつつ、色々とぼんやり考えていた。永遠のゼロの映画を見た時にちょうど当該人物も出演されていたため、印象がその時のものは残っている。芸能人をそんなに知らない私ですら名前を知ってるようなレベルの若手の超有名人が亡くなったとは何事があったのかと心配になる。彼にも彼なりの悩みがあって、いろんな立場や葛藤がひしめいて、その辛さを1人で抱え込みすぎたのかと思えてしまう。

国民的に知られた有名人とか恵まれている立場とか人をうらやむことは簡単にできるけど、その立場ごとに悩みは尽きないものだし、人間に生まれた以上考えてしまうのだし悩まないはずない、と私は思い込んでいる。当該人物もそうであったのだろうと考えながらニュースを見た。

悩み続けて本気で苦しすぎると逆に相談できなくなるのはわかる。もはや誰にも言えなくなるくらいしんどくて、そうなった時は自分が害悪を振りまくことを覚悟の上でヘルプを出すしかない。実は害悪だと自分が思い込んでいるだけで、そうではないことが多い。実は周りは相談を受けられなくて亡くなったことを非常に思い悩みながら今後を過ごすのであれば、ヘルプを聞きたいだろうし、そう言った死んだ後の未来の仲間が「聞きたかった」と泣くくらいなら、害悪ですが聞いてくれと騒いだほうが良い。…彼は非常に優しくて周りのことを考えてしまって、ヘルプが出せなかったのかもしれないけど。

ただ、それは事実であるとは言えず、本当に客観的な情報がないため妄想でしかないのだけど。

これは三次元の知り合いにも適応できる話である。生きている好きな人に好きと言えるのは当たり前のことではない。その人が突発的に亡くなることも勿論あるが、事情で何も言えなくなるのは可能性も高い。その相手が引っ越して転校やら転職していき、距離感が遠くなってしまい言えなくなることもある。両親の離婚を見て、相手を大切に扱って尊重し合えなければ仮に結婚当時は好きな人とも離婚をするというものを見てしまったのである。

結論は「好きな人には言える時に積極的に好きと言いに行こうぜ!推しが亡くなってから言わなかったからと後悔したくないじゃん?」。

推しが生きているタイミングで好きなところや好きなことを伝えたり、推しに会いに行ったりしないと亡くなった後に絶対に後悔する。わたしは西城秀樹さんのライブに行かなくて、推しの最初で最後のリアルイベントが彼の葬式になったしまった人である。それがどれだけ苦しくて、どれだけ悲しかったかと思うと当時を思い出したくないレベルである。推しは推せるときに推しとけ。

彼に、西城秀樹さんのブルースカイブルーを捧ぐ。

余談


余談1: 推しを勝手に長生きするものであろうと高を括ってしまうのは非常に暴力的な結論で推しに期待をしているだけに過ぎないのではないか。そんな状態で急に亡くなった記事を見るときの衝撃たるや最初は頭が混乱し、動揺してそのニュースが真であるか否かを調べ、本当であることを確認してから現実を直視して泣くことしかできなくなる。

2020年7月8日水曜日

私の思う女性性と女性性についての疑問

あまりにもセンシティブすぎて、数週間前に記事はできていたけど、何度も何度も推敲した。それにしては内容が薄いかもしれない。

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女性の定義は「人間における雌」のことを指す。哺乳類として子宮をもち子供を身体に持てるのが女性。子供を産むことが「女性」であるのだとするのは、生物的な意味合いでは正しいのだと思う。それは事実だろう。しかし、自分の認識が女性であるが身体が男性として生まれてしまった人が、女性ではないということはないと思っている。自分は色んな出会いをして性別についての疑問がぬぐえないままここまで来ている。女性性とは何か。

Google先生から出てきた女性性の説明



今回、女性性=女性らしさと定義して書いていく。女性性=女性らしさ=女性の特徴ということか。

〜性=性質=本来備わっている特徴
らしさ=その物事の特徴
特徴=他と比べ目立つもの

結論から言えば、私が思う女性性は以下の2点である。


  1. 精神が女性であるならば女性
  2. 子供のできる身体!=女性


高校時代からわたしがわたしを「女性」とくくる行為が正しいのかわからない。そもそもわたしはただの生き物であるのに、人から見られるのは生き物以前に女性であるかと考えてしまう。もちろん生物学的には人間の雌であろう。私が女性らしいとされる服装をするとき、自分は女装をしているのだと思うくらいには女性らしさに対してよくわからない。そういった人間が書いたものである。この考えの私が絶対的に正しいとも思わないけど。


-以下長文お気持ち表明文-


私はかつて出会った「体は男性であるが女性の人」と会話していた時に、性自認について考え続けていたことがある。好きな人は男性で、こころは女性で、体は男性。最初は周りからホモであると思われていたが、彼女は異性として男性を好いていた。勿論、女性は恋愛対象外である。話してみれば身体以外は女性であり、言動が本当にかわいらしかった。その姿は恋する乙女そのものであったし、個人的には「特に差がない」としか思えなかった。あの時の自分は純粋に彼女より女性ではないと思っていた。

ただ、彼女のような人が体を子供が産めるか否か以外の部分を女性にしたところで、子供が産めないというだけで「おかま」、「ニューハーフ」と呼ぶ風潮もある。女性と呼ぶのではなくニューハーフ。嘲笑しながらおかまという風潮。わたしからこれについて具体的なエピソードを書くつもりはない。今考えるとこの風潮は残酷だと思う。この地点で生物学的に女性ではないため認めないような脆さを感じる部分があった。勿論これは私の抱えている偏見である。

そのときに子供を産むという行為ができるか否かだけで性別が決まっている状態に疑問が出てきた。そしてそれは生物として、本能としては間違っていないのであろう。

もし仮に子供の産めない体に生まれた性自認も身体も女性の人がいたとして、その人は自分で子供を産むことができないから男性と認めるのかといわれるとそうではないだろう。子供を産める、それだけが女性なのか。

子供を産む、産まないは大切なのだろうか。多分、本能として子供を作りたいと思う人が多いのだろうと思う。結婚をする目的として子供が欲しいからと考えて、それで相手を見極めて結婚をするのだろう。その時、その人が好きだったとして子供が持てない人だったら愛が消えるの?その時愛した人が子供が持てない人だったらその人は女性ではなかったり、男性ではなかったりと思われるの?別にここで愛を育めなくなるのはその人たちの勝手だと思う。そういう思考を持つ人もいるだろう。

(わたしはそんなことで相手と別れないと思う。自分の血に対してのこだわりが皆無だし、本当に子供が欲しいであれば養子でええやんと思うので…)

子供が産めたとしても産みたくない人だっているだろうに、そういう人も自認が女性でも男性というのだろうか。性別を 子供が持てるか否か でジャッジするのは「らしさ」とは違うと思う。

スカートが女性性であるならば、スカートを男性がはく国の男性は女性であるのかといわれると否だろう。どうしてスカートを女性性の象徴とする?文化、年代、背景でも女性らしさは変わるというのに。胸があれば女性?胸のある男性だっているのに?

逆に女性らしい服装をしていなければ、肉体も自認も女性であったとしても女性とみられない。服装でらしさを作るだけでラベリングされるというのに、どうして子供が産めるか否かで女性性を判断できるのだ。ここまでジャッジがよくわからないのに。

この自分たちが勝手に決めつけた 女性らしさ はあいまいではないか。子供ができるか否かがジャッジされるところであるが、子供ができない人は性別不明になるわけでもない。だったら、同時に性自認だけ違う人だって女性であり、男性ではないのだろうか。

そこで分けられる理由がわかっていない。

自分自身が女性であると認識しているのであれば、他が何を言おうとその人は女性ではないだろうか。そこでその人を恋愛対象外と思ったり、恋愛対象だと思うかどうかはその人の勝手である。好みは自由だ。だけど、何人も「女性」と自認する当事者の女性らしさを否定する権利を有しているわけではない。

2020年7月2日木曜日

泣くなはらちゃんが好きだったなと



もう好きなドラマも7年も前の話になってしまった…という感想。


ずっと前から「泣くな、はらちゃん」というドラマが好きです。死ぬほど偏見なあらすじを書くと、主人公の夢女子が好きな漫画(連載終了)の二次創作をしていたら、ガチ恋しているキャラが二次創作ノートから三次元に現れて恋をする話で滅茶苦茶好きなんですよね。この夢女子は幸薄なので日々の鬱憤を二次創作で発散しています。

(はらちゃん好きな人から怒られるぞ)

夢女子がガチ恋しているキャラ(はらちゃん)を演じるのはTOKIOの長瀬さんで、ご存知?の通りめちゃくちゃコミカルです。


夢女子は美人でいい感じにおっとりしてておしとやか(写真では女優さんが死ねってやってるけど;非常に越前さんらしい)なので職場のイケメンから好かれます。ただ、その職場のイケメンは職場の若くて綺麗な女の子(悪魔さん)に好意を抱かれています。ただ、イケメンがまるで眼中にない夢女子とイケメンと悪魔さんの三角は「職場」という壁で悪魔さんとイケメンがもだもだしている印象です。(後の人間関係はかなりのネタバレになるので伏せていく)


悪魔さんはマジでかわいかったし、めちゃくちゃ好きなんだよな…それこそ昔は「三次元上だと結ばれない感じがして辛みしかねえな?」と思いましたが、社会人になり職場の人に手を出さないよなぁと今となれば思うところです。本当に葛藤するよなぁ…
(職場の人への気持ちなど、社会性と自分の気持ちとの葛藤なので…)

三次元と二次元のつながりみたいなものが本当に良くて、本当に良かったのでもし興味がある人がいたら見てほしいレベルです。自分はドラマは本当に見ないんですがはらちゃんは全部リアルタイムで見ましたね…
(もし語れる人がいたら語りましょう。)



本当に薬師丸ひろ子さんの役柄が好きすぎて「ふおおおお」となったので見てほしい。自分は彼女の気持ちが痛いほどわかる。

追伸:在りし日の菅田将暉さん