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2020年5月25日月曜日

過去を引き合いに出される人たち

自分からすれば過去のものというものは確実に存在していて、過去はこうだったことをいまだに言われると「過去の○○に対して今の自分はそれに見合う人間になれているのだろうか」と考えてしまうことは往々にある。

例えば、自分からすれば数年前の過去の産物を、未だに○○参加者なんだからと言われることもあるが、その過去の○○参加を名乗るほどの実力がなかったと自認する場合、居た堪れなさや恥ずかしさで暴走したくなることがある。

それこそ第三者からすれば○○参加や○△というコミュニティに属している存在に対して、○○の人と言ったり○△ということでイメージを固定した方が、その人に話しかけやすかったり、覚えやすかったりするのは事実なのだろう。コミュニティに参加することで現在進行形だと認知されることは多い。過去の産物やコミュニティで会話する第三者との共通認識が生まれることは否定できない。実際、そうしたコミュニティに所属できているというそれだけで、ビジネス的には良かれと認識されるなんてよくある話である。

過去の産物を産物として利用するのはすごく分かりやすくて、その過去の産物から抽出できたもの(経験則、成長できたもの)を話した方が自分の中では説明がつくものは沢山ある。そのため、全てが全て出さないで隠す必要もない(むしろ、その話題を出さないと自分の説明に辻褄が合わないことがある)ため、それ故に人に対して「過去の○○の話は過去のものでしかないのです」と強く言えるわけでもないのがもどかしくなって困惑してしまう。

ただ、過去のことを過去だと自分では認識していても、他の人からは過去のものだと思われず、現在進行形の肩書になっていたり、それでしか覚えられていなかったりすると当惑して「自分は他のものも持っているのに」とか「自分はそれ以外の部分を見られていないのだろうか」と焦る気持ちも生まれることもあるかもしれない。たまに過去の産物で嫌な気持ちになったり、過去の産物によって言葉を封殺されたりすることはある。

ひとつだけ個人的な見解(極論)をお伝えすれば、その過去のものであると認識しているものを積極的に出してきて、それに参加している、参加していないの部分で対応の変わる人間がいる。そういう人とはあまり関わらない方がメンタルに良かったりもする。
(しかも過去への言及自体は、とてもじゃないが態度の変わる人間の数が多すぎる。)

過去の結果(の中でも特に皮の部分)をみることで強いとか、弱いとか表層的なものによって自分の価値を認識してくる人は、正直自分そのものを見られていないことが多い印章がある(※余談1)。本当に過去の結果と自分の印象を見る場合、その結果だけを見るよりかはその結果に至るまでの葛藤や過程の部分での人間味を見たほうがその人らしくて、その部分に相手のその人を見てくれる人といると個人的には安心する場合が多い。
(ただ、お気づきかと思うけれど、同じものを共有した人間は大切にした方がいい。時が違えど同じ苦労をするはずなので…)

うーん、これは話が広がりすぎて結論が書きにくいんだけど、結論としてはその人柄を見てくれる相手ってのがすごく大切にした方がいい人で、表面的なもので判断しようとしてくる人と関わると結構大変ってことです。表面的な出来事で「あなたの価値はある」とか「あなたの価値なんて」と言ってくる人は、話していて大変疲れるので、内面を見てくれて楽しく話せる人はとても大切にしたらいいと思います。(小並感)

20分で書いたので言論が雑。

【余談】

余談1→学部時代にセキュ某に参加した後、大学に帰ると自分は何も変わっていないはずなのに、周りの態度が180度ほど変わったケースがある。それこそセキュ某に参加する前は「できないくせに」と馬鹿にされることが多かったが、セキュ某に参加したというただそれだけを見られて「プロ」とか「つよいひと」と言われたことがある。事実としてわたしは行く前も行った後もできない人間であった。また、セキュ某へ行ってから性格が90度くらい変わったため、その時の人々の持ち上げ方に気持ち悪さを感じ、人の態度が露骨に変わったことで人間不信に陥った。その時に態度を変えなかった数人以外との連絡手段を遮断したことがある。2016年以前から知り合いで、今も親しい人はその時に態度が変わらなかった人間しかいない。2016年に自分の周りの人間を切り捨てすぎた。本当に極端なので…
(就活後から会社名などを言わないようにして態度を変えられないように努力したが、教授が会社名を言うと聞いた他者の態度が変わることがあってメンヘラになったことはある)

2020年5月24日日曜日

誹謗中傷

連日、誹謗中傷の話題で事欠かないTwitter。前から誹謗中傷が蔓延していたのは事実であるが、著名人による自殺者が出たことで誹謗中傷の問題意識を持った人が増えたようだ。

この話題がTLに出続けていて、誹謗中傷が激しい画像が湧いているからか何故かこちらが参ってくる。トレンドをみると気持ち悪くなってきたため、悲しい哉、あれ以降Twitterのトレンドはアメリカ合衆国に変更したというのに、トップの大枠では日本語のトレンドが出てくるためこちらの話題が目につく。

言及する前に書いておくと当方はテラスハウスという番組を一度も見たことがない。知り合いがその番組が好きだと言っていたので名前だけは知っている。そのテラスハウスでおそらく彼らからすれば彼女から受けた理不尽なこと(?)が起きたようである。しかし、考えてみるとテレビ番組などリアリティがあったとしても台本があるだろう。彼らの感じた理不尽さは本人が起こしたものではない可能性がある(むしろ、その可能性が高いのではないかと第三者としては思う)。今回、誹謗中傷をしている方の気持ちがまるで何もわからないのだけど、Twitterに長文を書くのもあれなので色々と思ったことを書いていこうと思う。

Twitterで高校時代にいじめを受けていた際、誹謗中傷を何度もされたことがあるため、誹謗中傷で心を痛めてしまう気持ちはわかる。わたしが大量に「死ね」と書かれたメッセージが飛んできたら普通に死ぬかもしれない。大学時代も誹謗中傷を受けていた。最近は社会人なので誹謗中傷を受けたら会社にまで廻りそうな気がして、それはやめようと意識はするけれど、誹謗中傷をする人間はある日突然何かの理不尽を感じ、なんか勝手に湧いてくるのでかわすにもかわせない。それにより何度Twitterのアカウントを変えたことか。

いまだにTwitterでRTされるのが怖くて、いいねとRT通知は消しているし、フォロー外からのリプも通知が見えないようにしている。芸能人なのにクソリプが来たときの通知を消さないでくれるのって正直言えば、その人はマジで神だと思う。ファンのことをよく考えてくれてるじゃない。だから見てくれるんでしょう。嫌な意見も。

最近はやめたけど大学を卒業までは、嫌な人が出ると途端にTwitterのアカウントを変えるようにしていた。わたしにとってそれが一番の平穏だったから。ただ、それでTwitterアカウントをなりすまされたりなどしたので、Twitterアカウントを消すことはあまりにも不毛。好きな人たちとのつながりを消さないといけなくなるしね。

特に有名人の場合、Twitterのアカウントを定期的に変えることでSNSを平穏に暮らすことはできなかろう。有名になるためにもずっとアカウントは保持しておかないといけなそうだし。個人的な勝手な解釈であるが、有名人であるならば「黒歴史クリーナー」でTwitterの呟きを全消ししても、ファンの方が遡れなくなって悲しくなるかもしれないと思って配慮するのではないかと思えて仕方がない。あとは急に湧いてくる謎のクソリプ人間をかわすことは、それこそ湧いてくる数が多すぎて対処するにもしきれないと思う。

この話題でたまに見かける「死んで妥当だったのだ」という謎の言及は、有名人をサンドバッグにした快感から出た言葉なのではないかと思え、それこそ誹謗中傷は終わらないのではないかと言葉の嫌な力に気持ち悪くなっていく。

それこそこの件で思うのは、芸能人が個人的にTwitterをやってくれている状態は本当にありがたいことであって、攻撃するのはおかしいと思う。彼らは有名であるからこそ誹謗中傷を受けやすい。だからこそ、こんなに魑魅魍魎なものが沢山いるネットの海に自ら発信してくれるのは勇気がいるのに、そのありがたさを破壊していくのはそれこそ「お客様は神様」が抜けていない幼稚な思想でしかない(極論)。

高校時代にわたしが誹謗中傷で悩んでいた時に母から以下を言われた。わたし個人としては全く参考にならないがすごい発言だと思う。

母「わたしに悪口をいう時間を作って、悪いことを考えてるなんてそれはわたしのことが大好きすぎるでしょう。それこそ影響力があるわけではないわたしによって、その人の人生が不幸になっていくなんて正直に快感でしかない。嫌な人間など存在がなかったと無視をすれば済むのに、嫌だと興味を持つなんて。」

このメンタルを持てる人は圧倒的に少ない。こう思える人はSNSを使うのにかなり慣れていそうだし、実際母は黎明期からパソコンでの交流をしていたような人なので、悪口による殴り合いに慣れているのかもしれない。なんか話を深く聞かなかったけど、雰囲気ROM専のにちゃんねらーだったっぽいし。

Twitterで他者の悪口をいう人は、本当にわたしの美意識の範疇では品がないように感じられる。誹謗中傷を行うことで、自分自身の品のなさと思慮の浅さを露呈させたいるだけにすぎないことを、自分が仮に彼らの立場ならば反省を行う。けれど彼らの美意識ではその言葉が美しいのだろう。恐らく理解をしあえない可能性がある。わたしはとりあえず、有名人でもなければ配慮する必要もないため、最近覚えたての機能のミュート(遅くない?)を使うことを決めた。

2020年5月23日土曜日

自己分析と好きな本のアレソレ

太宰治の本を読むと孤独感のある人間は孤独から救われると聞いたことがあり、実際に読んでみてそれは真であると気づくことができた。わたしが特に共感したのは斜陽の直治さんに対してである。彼の葛藤を見ていると遠からずも自分の孤独と通ずるものがあって、彼の最期を思うと救いがないと絶望してしまった。

直治の印象


斜陽の直治は「不良ぶり、庶民と仲良くしたかった貴族」で、不良からも貴族からも疎まれる孤独の末ある人へ恋を抱いてから、葛藤の末に自殺する。庶民と仲良くしたいけど、本当は根からの庶民らしい遊びは苦手で、おそらく立ち振る舞いから上品さが抜けなかったのだろうと遺書から感じられる。庶民と仲良くするにも貴族という抗えない血が邪魔をして、輪の中に入ってもどこか壁を感じる。貴族であるというそれだけの理由で、個を見られていないような無限の孤独感。そうしていくうちに生きる希望が失われてしまい、生きたいと願い更に荒れたとしても死ぬしかなくなる。
(彼の本棚から共産主義的な本がたくさんあるのは納得がいく話だった。そして、それが同時に衝動への言語化になりうるものだったのではないかと考えるととても切ない。)

人から尊敬されようと思わぬ人たちと遊びたい。
けれども、そんないい人たちは、僕と遊んでくれやしない。

アヘンと葛藤していた時の彼の日記の引用であるが、これを見た瞬間から「同じものを抱えている」と同類を見た気持ちになった。彼がそうしてアヘンに逃げたのも気持ちが分かる…彼もまた学んで考えすぎる人なので、考えないためにも脳を溶かすものを摂取して考えを抑制するしか逃げ道がないような、救いを他から貰えるわけもないためそういう依存の仕方をせざるを得なくなる。本心はやりたくもないけど、心の均等のために行わないとバランスが崩れてしまう、そういった破滅衝動を抱え込むことがどれほど苦しいかを考えると共感で胸が潰れそうになる。

彼の葛藤は立場は違えど、ここ数年の自分と同じ葛藤だった。
 僕には、希望の地盤が無いんです。さようなら。
(中略)
 姉さん。
 僕は、貴族です。
読み終えた時、この言葉がわたしにはこの葛藤には救いはないと決められてしまっているように感じて、救いのなさに呆然と2時間くらい考えてしまった。

自分の葛藤でアレソレ


自分は彼とは違い逆の立場でしかないけれど、わたしはもともと育ちが悪く大学で努力し続けていたら、ようやく素敵な人たちが周りに現れ始めた。努力した先にいた周りは話を聞けばみんな親が大卒で教養があるようで豊かな文化的資本を抱えている。親から精神的な虐待など受けてませんみたいな過去に暗がりのない真っ直ぐな人たちで眩しく感じる(それは偽であり、悲しみを乗り越えたのでしょう)。この四年の出会いはほとんどの人が育ちの良さの見える人たちである。わたしは最近出会う人たち全てに憧れを持ち、こういう人といられると幸せなのだろうと思うものの、上品な人たちの周りにいてボロを出すと育ちの悪さが出てきてしまい孤独感に苛まれる。

だからといってもとの育ちの悪いコミュニティに帰りたくもない。気が合わなくてそわそわしていました。そのコミュニティで探した友人達は豊かな人が多く、友人達と話せていて幸せ(むしろわたしなんかと話してくれることに申し訳なさもある)だけれど、友人以外のコミュニティの人間達を思い返すとそのコミュニティにかえることで変な疎まれ方をされる。

(わたしは育ちと環境で安定感が欠落していることを自認しているため、穏やかで安定感のあるものにせめて表面的には見せようとは努めるが、余裕がなくなるとボロが出る)

自分が誰にでも惚れ症というのも意外と偽で、現実はこうして今現在成り行きで出会う人たちは全員魅力的なので気を張らないと常に惚れてしまう。というのも、元のコミュニティでは惚れ症な状態には全くならなかったので…昔から憧れていた理想的な人間たちが目の前で大量に鎮座しているのは、それはそうなんだけど…ただ、仕事の関係で出会った人間に惚れること自体が嫌で、会社がなければただの魅力のない怠惰な人間であることを証明している感じがしてそれもまた本当に苦しくなる。でも毎回何も考えずに惚れられたら幸せなんだろうと思う。でも惚れるという場合、その対象が存在するので対象が嫌な思いをするのは避けたい。自分は友人と思っていた人間から好意を抱かれたら嫌だと思ってしまうから。

そうこう考えているうちに自分はまだまだ思考が浅いなあと思い、更に哲学や古典を学び続ける。しかし、学んだところで自分自身の浅さが露呈して、焦って悲しんで苦しむしかない。でもこうしないと少しでも近づけない気がして、葛藤しながらも学ぶ。

結局自分には圧倒的に何も足りないと感じ、それについて更に焦る。そして、足りない部分を学び続けても、いくら視点が豊かになったり考え方がどんどんとよろしくなったりしたとしても、一向に彼らの文化と相容れない。どうしても彼らの好きなもの、おすすめのもの、色んなものを共有してもらって、いろいろと触れてみて、芸術でもなんでも展覧会はチェックしてと生きているけど、結局僕は透明な壁の中で外の世界を眺めるだけに過ぎないような感覚に陥る。その外の世界はパノラマのようでいて、どことなくおもちゃのように感じながら、自分とは関係ないものなのではないかと焦る。ただそれを理解されるはずもない。

救いがない。

たまに自分なんかと話を合わせてくれたり、仲良くしてくれたりする奇特な人間が現れるが、そういう人と話していて楽しいけれど、自分なんかが話す価値など…と考えてしまう。ありがたいし、仲良くなりたいのにそれに対して「お前が親しくしようとするのは自己愛でしかない。相手のことなど考えられていないのだ。」と心の中に飼う哲学者が嘲りながら笑い始める。たまに仲良く話してると惚れ症を拗らせているため、惚れそうになるからその点のバランスをとるために自己分析に哲学の本や過去の経験を使うことで自分に対してセーブをかける。それで破滅への衝動との距離感を保つ。親しくしようとするたびにからまわると、どんどんとクソ野郎の方がお似合いだと自分に言い聞かせてしまうこともある。

その部分を触ってきたのが斜陽の上原と直治の関係性で、上原はは根っからのクソ野郎だったけど、彼は上原しか選べなかったんじゃないかとも思える。それ故に初めて直治を見た時の衝撃たるや、これは本当に仲間を見るようなもので、彼の破滅衝動の末路は上原になりそこからまた狂ったんだろうと失礼ながら同情してしまった。

破滅に向かわないと、破滅への衝動にかられないと、早々に死を迎えないと、こうした自己を肯定できない自分を許すことができないのであろうか。壁の向こうを知りたい欲はあるのに、それが許されていないのではないかと焦っても意味はないのに。

いつになれば自分が血のことで葛藤して、血から反抗するためにあがいて、そのうちにあがいてもその血の部分は揺るがない。いくら言葉を得ても、共産主義的思考とかマルクスの言葉が自分を救ってくれるわけではない。結局最後は「僕は貴族です」と自殺した直治のように、取り繕っても自分は卑しい人間だったと認めて自殺をしたいわけではないのに、行きつく先の救いがそれしかないのかと苦しい。もし、直治が救われていたら自分は救われていたのかと思うと救われていなかったとは思うが、自分を救うためには救いが必要なのだろうと思える。○○も救われた、というような実績があれば安心するのに。そのための言葉が必要だ。知らないから空虚なのかもしれない。

2020年5月22日金曜日

コミュ障陰キャが街コンに参加したら胃を半壊した話

なんでも知らないうちから意見を言うのはよろしくないと思い、色んなものに参加することで人生経験を深くしようと思っているいわしです。

残念ながらオンライン街コンが合わない人間らしいので、オンライン街コンをことごとく非難しているため、こんなクソ野郎だったのかといわれかねないかもしれないですが、オンライン街コンの話です。

長文前座無駄話のポエム【ここから】

先日「自己愛について」悩んでいたところ、社外活動で知り合った人からプラトンの饗宴を教えていただきました。読んでいてとても面白いと思ったと同時にふと「では僕は出会いがなくて悩んでいる可能性があるのであろうから、街コンに参加してみるか」と思い参加しましたのでレポートを記しておきます。

動機のもう一つは「結婚披露宴呼べよな☆」的な発言をされた際「神になって今から結婚できるような人間を創造するより出会う方が早いだろうな…」と考えて、さて出会い自体は実はエンジニアですから多いといえば多いんですが、彼らは仕事として出会う可能性が高いですし、そもそも私に対して恋愛として見ているわけではありません。後、出会いを求めている人間たちに対してなら、仮に自分が話してみてこの人は素敵であると思ったときに、その気持ちを押し付けても構わないだろうと判断しました。

それこそ大学の後半から現在まで本当に素敵な人たちと出会うことが多くて、事実として私という人間は非常にちょろいため油断をするとすぐに惚れてしまいそうになるのですが、自分に対して人間として仲良くしてこようとしてきている相手に、自分が好意を抱くことで人間関係を壊したくないのです。それが怖くて怖くて、それを起こさないためにも他の環境で誰かを見繕うことができたら、自分にただの友好的な感情を持っている人に対して、雑念なく友好的な感情を返せるだろうと思いました。今でもたまに惚れそうになるたびに「この人にはとても素敵な似合う人間がいるだろう」と思うことである程度自制するんですが、それも今後増えると大変そうとも思います…

相手が友好的な感情を抱いているだけに過ぎないのに、自分が恋愛感情を持ってしまうと暴走しそうで、それがどうしても怖いのです。そうして人間関係を破壊するときに相手に振らせる労力をとらせて、それで傷つけることも嫌なんですが、同じくらい自分が傷つくことも嫌なのでしょうね。これは本当に小声で書いておくと、読書関係なしだと理系の男性の方が好きなんですけど、こういう出会いの場の本を読まない文系の男性の多さにつらみを感じた。
(ただ、こういう場で出会う人は好きになれないというのも自覚しているため、正直言えば無駄な時間を過ごすことになることは想像していました。偏見を抱いているだけに過ぎないでしょうが、自分が一番人間に欲している対話ができないので)

私は人を恋愛であったとしても、人間的にであったとしても好きになるということに対して、自己愛を他者に押し付けているのではないだろうかと考えてしまいます。現状の友人以外に「好き」を押し付けることに対して恐怖を覚えているため、街コンでの出会いを頑張っている人たちを見ることで自己分析を深めたくて参加する1.5h前から胃を痛めているところです。

彼らはどうして人と出会いたいのでしょうか。モチベーションも知りたいと思います。調べた限りですが、恋を求めているのでしょうか。結婚するための名前を貰える相手探しでしょうか。依存する先でしょうか。専業主婦になりたいのでしょうか。やり捨てするための人間探しなのでしょうか。それとも、私のように自分の今いる環境の周りにたくさんいる優しい人たちに惚れないようにするためなのでしょうか。

オンラインじゃなかったら参加しませんでした…

ちなみにドMなので(大嘘)胃を壊すために参加しただけに過ぎないため、出会いがあったのかといわれるとないですね………無理だわあんなん…二度と婚活系とか恋活系はやらない……
(こうしたものを参加した後だと友人たちが如何に善良な人間であったかなどと思って無限に惚れそうになるが惚れ症!!!!お前そういうところやぞ!!!!!)

長文前座ポエム【ここまで】

実際のオンライン街コンの流れ


登録

適当にその地域に合う街コンでタイミングの良いものを見つけます。

適当に安くてまともそうなオンライン街コンに登録してみました。
(これは9割人間観察をするためのものなので、民度が低くてもよい。)

料金を支払う。

登録完了

街コン運営に対して本人確認などを行う

前哨戦的なメッセージが飛んでくる

始まる

会話を行う

おわり

本人確認をする際にちらっと見えた「大手企業在籍です」「一流企業です」みたいな肩書きがちらりと見えて、こういうところで大手企業以外のアイデンティティの出せない人はそれ以外に魅力がないことを自認しているようなものなのではないだろうかと思えて、個人的にはげんなりしてしまいました。個人の見解なんですが、個人的な魅力があったり、その人なりの良さがあるなら会社名って全く必要がないと思うんですよね。教える気はなかったんですが、私は会社名は名乗りたくないし、また相手の会社名を知りたくもないなと思いました。エンジニアであることすらこれは名乗らない方がいいかもしれない。

[鍵マーク]顔写真を登録してください>

顔写真を登録しないといけないという謎の文化(そりゃ出会いを求めているんだから当たり前なんだよなぁ)の通過儀礼のようなものがあり、これを見た地点で「なぜこんな虚無に申し込んだんだわたしは…」と目が死にました。 結局顔写真は登録しなかったんですが(え?)、さらに自己紹介欄があって、年収とか職業とか会社名とかそういうものを知りたがっている感じで、人間の醜さと言いますか、欲の深さをまざまざと体感する状態でありました…

会社名とか兄弟構成、学歴などは正直に申せば、ギラギラしている知らん人に教えたくないじゃないですか。私がそれを話せるのはなんだかんだ界隈の人たちだからだったのかと痛感し、だったら界隈の人と付き合えばいいじゃん(?)と思いましたが、仕事だからと思うと、仕事外で探さなきゃ…と元にもどりました。セーフ。
(しかしどうして他の女性参加者の方々は学歴も仕事も付き合った人数も何もかもかけるのだろう…?自信があるからだろうか………)

始まるまでの間に何件か足跡やいいねが来て、それから質問も届く。「休日は何をしていますか」という質問が来て「読書ですね」と返す。私を知っている人なら読書を知ってくれているだろうけれど、知らない人だから聞かれたのだろうと思うと、Twitterのフォロワー様ってすげえって思ってしまった。

「良かったらなかよくしてください」というありきたりなメッセージが届き、仲良くするにも仲良くしたいと思えるくらい話せたらですわねみたいな遠い心で見てしまう。

あとは「初デートで行きたい先は?」という運営からの質問がしつこくて、その時何を考えたのかわからないけれど「二条城」と記載する。初デートに行きたい先の二条城について、誰からも触れられなかったのが残念ではあるが…

そんなこんなで始まるのであった。

実際のオンライン街コン


顔写真を載せていないこともあり、写真をDMに載せてくれと送られてくることが多く、ものすごくその地点でげんなりする。おめぇ顔より対話だろjkと返したくなったがぐっとこらえ、淡々と返すものの相手の人間性は推して知るべし状態。

まず、話をしてみて理解しましたが、間違いなく皆さん恋を求めているようです。これは断言します。当たり前ですけれど。恋をしたいのはわかるんですが、この場合の恋って恋に恋している感じが凄くて「人柄を知ろうとする気配がない相手に恋ってどういうことなのであろうか」と考えてしまいます。人柄を知るためには対話をしたらよいと個人的には考えますが、恋をしようとする場合、感情を優先する傾向にあるのか、ひたすらに感情をぶつけてくる相手方。言葉をかけても感情が返ってくる。

そうです、読んでいてお気づきでしょうが圧倒的に対話ができないのです。相手のことを知ろうと思うんですが、どうしても相手が自分の感情や肩書とか顔とかそういう話に持っていきがちですし、質問に答えるわけではなくお茶を濁されていることが多い。読んだ本くらい言ってくれよ、それくらいなら言えるでしょうとか思ってしまう。相手がビジネス書を読んでいると聞き、どんな本なのかと返せばスルーされ、相手から読んでいる本を返せば哲学書面白いですよねと返してきたので、哲学書について深堀しても読んでいないみたいで知ったかぶりな回答をしてくるとそれはもう呆然としてしまいます。

その人の読む本というか、読書の傾向によって人となりを若干見れる気もしているんですが、それすら許されねえのか…

趣味の話を聞こうとしても、例えば私は趣味で楽しくマシンガントークされたらなんか面白そうに感じる単純な人間なんですけど、なんか知らんが趣味を話しているだけなのに臨戦態勢でクソつまらん。何故か始まる上下関係?!趣味の話なのに全力で疲労する。

後は婚活はなんだかんだ男性の方が強いのでしょうか?全体的に「亭主関白な態度をとるつもり満々です」的なノリの言葉を使う風潮を感じられ、対等に会話することの難しさについて考えさせられる次第でした。私は専業主婦になりたいと思わないことと、父親を思い出すと亭主関白な態度について、かなり対話のできなさというものを痛感する出来事でした。給料とか安定して働けるのは男だとか、会社はどうとか、そういうことで女性と争いたい気持ちがわたしにはわからない。そんな人間として小さく感じてしまう話題をなぜ恋人探しでできてしまうのかな…私には気持ちがわからない。

わたしはオタクとオタクな会話をしているときの楽しさを知ってしまっているからか、こうしたところにいる人の会社で殴ろうとしてきたり、亭主関白な男らしさ(笑)で話を従えようとする人たちとやり取りをしていて、本気できつい。対話のできる相手と話し続けられる関係性が一番素敵だと思うんですが、それを求めること自体がそもそも高望みなのかもしれないです。でも苦しい。肩書か、顔か、男に下がった態度でなければ会話ができないのが苦しい。女は稼げないという圧倒的な自負からくる見下したような言葉をされ続けていることを自覚する。一方的なメッセージできつい。こんなもの対話じゃない。

対話ができる人ってそんなに高望みなのか?

私は元々かなり教養もなければ思慮の浅い人間であると思っているのですが、そんな自分と対話をしてくれる方というのはやはりいろいろと考えてくださっているからこそ対話ができていたのだと痛感してちょっと涙が出そうになりました。嘘です、ちょっと泣きました。そして、知り合って20分も経たないうちにラインを交換しませんかといわれ、いや、それは嫌だなと思って本心に気づきました。対話ができない人間とラインでやり取りなんて無理です。わたしはプロじゃないのです…キャバ嬢じゃないんですよ。

後、これは面白いことをいうと、最初の懸念である「大手企業の社員を名乗る人虚無説」は事実でしたが、それを自慢するだけであるため対話はできなかったけど苦しくはなかったです。まあ、大手企業の社員なのである程度の人格が見込めたのでしょうか。婚活市場にいたら魅力を感じるという話はすごく良くわかる。自慢されるか言葉で見下されるかなら、自慢された方が精神的に良いと思えるね。

そうして一時間でギブアップしました。多分オンラインもオフラインも街コンとやらにはもう参加する必要もないでしょう。そして、人間に対しての期待をどんどんと破壊したので、「対話できない相手と焦って結婚するのって絶対に地獄だし、1時間で修業したレベルなんだから、独身の方がn倍マシですわね」と思えるようになった。ありがとう街コン。

プラトンの饗宴は私に「自己愛でも押し付けてええんとちゃう?相手に奉仕してればええやん」みたいな考え方を与えてくれましたが、自己愛は押し付けすぎると致死量で死ぬ。

2020年5月21日木曜日

読書と教養

 個人的な見解を述べると読書をすると言葉が増えるのは事実だが、読書を行わないから教養がないという発言は的を射ないと考えている。確かに読書をしている人間の方が本から得られる情報により教養を習得しているケースが多いため、その論が一つの見方において正しさを有することがある。ただ、教養を得る方法は読書だけではない。読書だけを正義であると認めて視野を狭めることが一番恐れるものなのではないか。

 私が読書から教養を得ている人間に対してかなり好意的印象があることは否めないが、だからと言って読書をしていないという点だけですべてととらえて否定することは世界を狭めるだけに過ぎないと考える。読書以外でも教養を得られる芸術分野は存在しているわけであるし、そうしたものから得られた感性を大切にしている人間の言葉も素敵だと思う。また現実の世界に存在する人から影響を受けた言葉を大切に考える人もまた、その人の中にある大切なものを信じているわけであるから、そうした大切なものを軸に努力する人も魅力的であると思う。そのような読書以外で得られた魅力のある人間を自分は否定したくない。

 例えば、○○さんは読書さえすれば完全な理想的存在であると認めた時、○○さんに読書をしてもらうことを押し付けるのは○○さんの個性を否定することになる。○○さんの読書をしない個性を認めて、別にもいるであろう読書をしている人と接すればそれでよいのではないだろうかと考える。(おそらく)好きな人間に対して自分の理想を押し付ける行為は自己愛でしかない。その人間がある程度受け入れるのであればよいのかもしれないけれど、人のおすすめなどを受け入れる行為は受け入れる側はパワーを使うのだ。(※余談1)

 ただ、読書をしない人を認められない人も存在していることを自分のtwitterのTLでさわさわしている言論群から確認することとなった。「読書」という行為そのものだけが正しいだろうか?

 私が読書をしていてつくづく感じるのは自分自身の未熟さや至らなさ、知識や教養のなさが多い。本を読み続けて知ることでさらに知らないことが増え、自分の知らないことの多さに恥ずかしくなる。なので大学二年生の夏ごろからずっと自分の尊敬している人が教えてくれた基準で本を読み続けている。知ることで知らないことを知ったつもりになる自分の恥ずかしさも多く経験しているし、未だに知ったかぶりを起こしては反省するような生活をする。そしてまた自分の未熟さを痛感して本を読む。

 そこに見下すべき他者は存在しない。読書をしない人に対して嘲笑するような読書家を見ると、何と争っているのかと感じることが多い。読書をしない選択をしている人は、読書以外で教養を得る手段を持っている可能性があるというのに、読書だけが正義ということもないだろう。個人的にはそのようなムーブメントが起きている現状に対してとても悲しい気持ちになる。私の見解としては読書をする人がわざわざ読書をしない人に対立を生むような発言をすることに疑問を持っている。それが私の意識としては美しく感じられない。その人たちにとって美しい行為なのかもしれないので、それをすべて否定するわけにはいかないけれど、お互いの良さを認識できないものなのであろうか。

 最後に、私が最近好きなジョン・ロックの言葉に以下のものがある。

「読書は単に知識の材料を提供するだけである。それを自分のものにするのは思索の力である」
読書単体は知識でしかない。知識を得た先に豊かな人生を歩むためには、思索をして自分の考え方の血肉にして視野を広げること。ようやくその本の役割が果たせたとも言えるのではないか。私は教養自体が豊かな人生を歩むための考え方の材料に過ぎないと思う。(※余談2)

【余談】

余談1: 人の勧めはとりあえずすべて手を出す人間なのはかなり特殊だと自覚している(私個人はとりあえずやってみることが多い)。こうした勧められたものに手を出す動機の見解としては、色んな文化的なものに手を出すことでそれを好きな人間の考え方や話題が欲しいと思うからである。後は食わず嫌いで知らないままで好きだったら嫌なのでとりあえず全部やってみていることも多い。

余談2:日々「修養します」と言い本を読むのは、教養を修めるためには言葉が必要だと思い、自分のやり方として一番効率が良かったのが読書だから本を読むにすぎません。他のやり方もあると思います。