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2020年9月25日金曜日

何故かGoogle formの回答が反映されないので対策を考えてみた

何故か回答したはずのGoogle formのアンケートが反映されていないという事象を2度も起こし、自分に対して嫌気が酷くなったので、その場しのぎの対処法を載せておきます。

わたしもなんですが、自分を嫌になりたくないじゃん。

当方環境

  • iPhone XS
  • docomo
  • 謎のWi-fi(とても安くて速度が遅い)
  • Safari

Google formの結果が反映されない原因




この画像の表示を見逃すことが挙げられるかもしれません。わたしは基本的にアンケートは脳死で解答してるので、これが出てても無視してしまうのです。

いつ出てるのか見てなかったのでわかりませんでしたが、回答完了画面をみた2秒後に元のページに遷移しています。

原因分析

正直赤いバーが起きる原因を掴めていないので調査中です。

誰かの卒論のためのアンケートを答えました。その人の許可を得ていないので動画は取りませんでしたが、その結果「回答を送った2秒後くらいになぜか赤いバーが表示されている」ことがわかりました。

今回調査のために10件ほど大学生の卒論や企業のアンケートに回答した際、エラーが起きたのは10件中4件ほどでした。ソースは10ですが確率は4割という結果になります。

エラーが起きたのは以下4件です。
  1. sechack365のアンケート
  2. 大学生の卒論(ソシャゲについての調査)
  3. 文系大学院生の卒論(衣服についての調査)
  4. なぜ働いているのかについてのアンケート

Google formを使う以外の共通項はなさそうです。

このiPhoneで脳死回答すると起きている事象なので、社会インフラとしては本気でやめて欲しいんですが、Googleさんに対しての依存を感じましたので自分から対策をねる必要があります。

対策方法

今回、「送信後2秒後にエラー表記が出る」という情報を得たので、以下の対策を検討しました。

  1. 二秒間はアンケート結果が無事であるかを確認する
  2. 送信直後から画面下部に出ている赤いバーが出ているか否かを見ておく
それでも難しいかもしれませんので、もし対策方法があれば教えていただけますと幸いです。

根本的な原因解決の方法は思いつきませんので、Googleさんに解決してもらえることを祈っておきます。

2020年8月25日火曜日

結局天ヶ瀬冬馬は神奈川県の何処出身なのか?

どうも、神奈川県川崎市出身のいわしです。川崎市民でした。はい。

出身地を明かすつもりもなかったんですが、ある理由で明かすことにしました。突然ですが、神奈川県出身の人間って「神奈川県出身」と言わないんですよ。

「横浜出身で…」
「川崎生まれで…」
「湘南出身です」
「鎌倉に住んでて」

だけど彼は神奈川県出身というんですね。それに対して元神奈川県民としては物凄く違和感があるのです。

冬馬くん「神奈川もとおかねえけど、都内にいた方が移動は楽なんだよなぁ…」

天ヶ瀬冬馬くんは神奈川県出身というが実際は何処出身なのだろう?と考察したことがなかったので全力で考察することにします。

天ヶ瀬冬馬の生誕地の予想


個人的には絶対に川崎ではありませんようにという願いはありつつも、色々と分析していきます。

天ヶ瀬冬馬くんといえば


我が推し天ヶ瀬冬馬くんの特徴をあげます。
  1. カレーをスパイスから作る
  2. サッカーが好き
  3. ロボットアニメが好き
  4. 歌が上手
  5. 高校生
  6. 「神奈川県」出身

やはりまいたるのように「hey~僕は横須賀出身だよ☆」でもないし、九郎くんのように「鎌倉です…」と名乗ってるわけでもなく「神奈川出身」が異質だなぁ…とモニョる。

神奈川県でサッカーに力を入れている市町村


実は神奈川県は「サッカー」に力を入れている県です。冬馬くんは幼い頃からこうした神奈川県のムーブメントに揉まれて今の冬馬くんが形成されたのでしょう。

神奈川のサッカーですが!!!!!!全国で一番「「「Jリーグ」」」のチームが多いのは神奈川県!!!!6チームあります!!!!!

サッカー王国である静岡が一番じゃないんですね。

特にサッカーの熱の目立つのは以下の市町村というかチームというか。
  • 横浜市
  • 川崎市
  • 相模原市
  • 湘南ベルマーレ(南の方の市の集合体)

この中で特に熱いJ1を抱えているのが横浜市(横浜マリノス)、川崎市(川崎フロンターレ)。川崎はフロンターレに対しての熱がすごいですし、横浜市民も知り合いはマリノスを応援してる人が多かった印象です。

「神奈川」出身という発言


さっきから五十回くらい言ってます(オタク特有のクソでか表現)が、神奈川の人間って市をいうと思うんです。

自分は地元川崎の記憶を捨てたいレベルなんですが、だからこそ川崎出身というのが非常に恥ずかしく思っています。現在関西の企業で勤めているのですが、人には「神奈川出身」と言っていて何人にも「あれ、神奈川県民って○○市って言わない?」と聞かれて、恥ずかしくなりながら「アッアッ……川崎です…」ってやっています。

実は天ヶ瀬冬馬くんも「その類」に見えるんですよね。

これは経験の話ですが神奈川県の色んな市から高校には集結していましたが、横浜出身の人はどの区であったとしても横浜出身と言いがちな印象を受けていて、仮に冬馬くんが神奈川県出身でも「神奈川県出身」と名乗るのは横浜出身ではないという可能性が高いと考えています。

ってかなんとなく口調が弊市出身感あるんですがそれは…

天ヶ瀬冬馬の発言から推察


天ヶ瀬冬馬くんは神奈川の何処出身なのかを考察する上で地域柄を考えるのは意外と有りだと思うのでやってみる。

おそらく横須賀出身ではない


横須賀観光、すっかり堪能しちまったな

地元民ならこれは言わないですよね…というかJupiterで冬馬のお部屋いってるし、もし観光するならその前からしているはずです。





横須賀出身であればこの画像の発言はしないと思われます。何故なら横須賀市民なら地元なので、地元民なら気になればすぐに研究しに行くからです。

遠かねえけど…


「神奈川もとおかねえけど都内にいた方が移動は楽」

遠かねえ→東京都内に近い神奈川県の地域の可能性が高い。

元神奈川県民として考える「都内への移動が難しい」地域








丸で囲ったエリアは「とおかねえけど…」というには都内に出るには遠すぎます。小田原近郊になるともはや都内に出るためのエネルギーは静岡レベルの高さです。おそらく発言を推察する限り、小田原や湯河原、三浦の人ではないでしょう。まあ、車があれば高速道路を使うんでしょうが…。交通の弁が悪い為、年齢的に免許を持っているわけではない天ヶ瀬冬馬くんには電車などを駆使していくのではないか(いや、もちろんPが送迎もあるだろうけど)と考えるばかりです。

天ヶ瀬冬馬くんのお父さんの話は全然出てきませんが、お父さんが職場が東京と仮定して家のローンを浮かせるために交通費全額支給の会社で小田原を選んでいたとしても「とおかねえ」と言えるかという話ではあります。多分本当に近いからこそJupiterの3人は冬馬くんの部屋でカレーを食べに集まれているのであるのだと思っています。

門前仲町へのいきやすさを考える


アニメとMステ設定かもしれませんが、315プロは東京都内…門前仲町にあります。門前仲町に行きやすいを都内へのいきやすさとしての指標として見ていこうと思います。客観的に見たいので全ての駅を最短時間にしています。

横浜→門前仲町 48分



川崎→門前仲町 38分



相模原→門前仲町 1時間21分




なんとなくですが、私はこうやって出してみると「相模原ではないのでは…?」というような考えに至ります。正直神奈川出身としては相模原在住だと門仲へ行きにくすぎますし、そもそもJupiter三人でカレーを食べ集まるにも立地が悪い気がします。

ほっくんは京都出身ですし一人暮らしで冬馬君が何処であったとしても合わせられそうですが、翔太くんは東京都民(おそらくオフショ的に実家暮らし)であることを考えれば、自ずと見えるかもしれません。まって…何処だろう…




↑カレーを冬馬の部屋で食べる図

なんか、なんとなくなんですけど、川崎出身な気がしているのです。なんか私は推しと地元が一緒な気がするんです。そうなると川崎説に対しての若干の反証を提供しないと説得力がでません。

ヤンキーはそれほど知らない


「正直いうとヤンキーについてはよく知らねえんだ」

「仮に川崎出身ならヤンキー知ってそうでは?」ということを考えそうですが、面白いことに川崎は治安の良い地域と悪い地域があります。具体的に川崎でヤンキーの生息する地域というと、川崎区と幸区が当てはまると思います。世間一般の「「「川崎」」」はこの2区だと思えば大体大丈夫です。仮に川崎出身かつヤンキーを知らない場合、可能性としては中原区から以北出身であるという可能性が高いです。

例えば、治安の良い地域を選ぶとしたら以下の川崎市の地域を選ぶことができます。

  • 再開発されている武蔵小杉近郊
  • 高級住宅街の新百合ヶ丘出身

ここでまた「門前仲町までの電車」を考えてみようと思います。天ヶ瀬冬馬が電車にいたらびっくりするので車で通勤して欲しいけどさ…。

武蔵小杉→門前仲町  37分




新百合ヶ丘→門前仲町 58分




新百合ヶ丘だと若干電車だと遠い感じするけど無理はない…はず。

武蔵小杉だと門前仲町への最短が横須賀線なので時間の融通を考えると非常に不便だと思いますが、都内への移動はかなり楽だと思います。
(路線としては東急東横線、目黒線、横須賀線、湘南新宿ライン、南武線、直通で相鉄線)

武蔵小杉は「神奈川も遠かねえけど都内の方が移動は楽」の最適解に見えます(暴論)

また武蔵小杉出身であると、川崎フロンターレの良く使うスタジアムである等々力球場も近いので、幼いころにサッカーを観に行く経験があった場合は新百合ヶ丘よりも現実的な距離で両親と行くことができたのではないかと考えています。

ということで(?)、個人的な仮説検証としては天ヶ瀬冬馬君は神奈川県川崎市中原区武蔵小杉出身ということにしました。ずいぶんとローカルな感じがしますw

2020年8月14日金曜日

生きる価値と貢献について

久しぶりに意見を書こうと思ってようやく開けて少しだけ書いている。

数ヶ月ほど私なりに本気で考え続けていたものの言語化である。私はこれを結論づけられた自分は一仕事終えられたのではないかというくらいに成長を感じる。

まず第一に自分の生きる価値について考えていた。哲学者は生きる価値について答えを出すかと思い、安易なのでショウペンハウエル先生の「自殺について」やら「孤独と人生」やらを読んでいた。ショウペンハウエル先生の著者を読んでから貢献などを行うほどの価値があれば生きていていいだろうと考えた。

そこで自分ができる貢献について考えていた。その中で色んな情景が出てきて、誰かに対して自分は貢献をせずに迷惑しかかけていないことに気づいた。何に対しても貢献ができず迷惑をかける自分に対して、生きる価値を喪失してると判断していた。そのことが恥ずかしくて心から自殺をしたかった。どこで死ぬと人に迷惑をかけないかと悩み続けていた。

ただ、調べてみるとどこで死んでも誰かに迷惑をかけることがわかり、死ぬことに対して悩んでいた。誰かに迷惑をかけていることを恥じて死にたいのに、死ぬと迷惑をかけるのは二重に恥だと思えて困り果てた。希死念慮の延長線上にあった自殺願望を抱えて、無限に自分の内にある精神と会話し続けていた。それはここ数ヶ月の話である。

この話の結論としては国は自分に生きる価値を感じでいるだろうということである。というのも、年金や税金をこれから先払うのは今のところは若い私であるし、そういうことを思うと今死ぬと国の税金的な意味では生きててくれと思っている人間がこの世に一ミリはいるだろうということでギリギリ生きていようと思った。それでもまだ貢献ができないと思うのであれば、献血で血を分ければ失血した誰かを助けられる可能性もあると思う。生きる価値について考え始めてから献血もしているが、生きてていいように感じられるので、献血は私を生かしてくれている要因の一つである。

この最初のネガティブな話は前座であり、もう少し貢献についての話をしていこうと思う。

先日、いろんな人たちがいろんな結果を残したり、自分が憧れるようなものに対してアレソレしてたりしているのを見ていた。純粋に自分はそれに対して素晴らしいと思う心もあったのだけど、それ以上に焦りが生まれていた。いつもこいつ焦ってんなって感じだけど。

「周りは先に進んでいる、自分は立ち止まってるだけに過ぎないのではないか」と焦燥感で生きた心地が皆無であったのだ。

(そういう進んでる人たちに素直に応援とかできてないことも、自分自身が本当に人望がない人間であると思うところもあった。)

自分はそうやって行動してる人たちに対して何かを提供できているわけでもないし、特に彼らに協力のできる人間ではないなと思うと自分の無力さに対して嘆くところではあったが、最近はそうした貢献をしていないと嘆く自分に対して傲慢であると思うようにもなった。

というのも、貢献とは自分が求めるものではなくて自分が誰かに恥じない生き方をしていれば自然と湧き出すものである…。自分は修行中の身であるため、誰かに迷惑をかけることはあれど、誰かに対して貢献できていないと痛感していた。

事実として他者に対して貢献できていない部分は否定できないし、何かに対しての貢献について死ぬ気で考えてその身の振り方についてかなり考え続けていたお盆であった。そもそも修行中に貢献なんて出来るのであれば、私は修行をする意味がない。

そこでの今の段階では「自分が何かを提供できることに対しての貢献とは、誰かから求められたものでしかない」という考えが結論になった。

そう、誰かに対して貢献することは生きる価値にはなるだろうけれど、貢献は自分がしたいと思って湧き出るものではない。そうやって貢献したいとやろうとするのはなんというか気持ちの押し付けにすぎないのだ。

焦って貢献したいと思うのは自分の無力を露骨に出しているように感じるし、本当に貢献のできる人はできることに対して愚直に取り組む姿勢を貫くだろう。これは私の負の要素や恥ずかしいものと向き合い続けた結果一つの光として生まれた考えであるけれど、合っていると言えるかは分からないがそれほど間違ってはいないと思う。

自分は特にsechack365においては「貢献がしたい」という願望を持ってやっていたように思う。しかし、貢献とは誰かが何かを求めているときに自分の持っているものを差し出すことである。自分から貢献を探すのは自分の持ってないものでアレソレしようとしている感じがして、それって違うような気がしてきた。

今年24歳でこれに気づくのは正直に遅くないかと、自分でも少々恥ずかしいところがある。

わたしの神様にして推しである天ヶ瀬冬馬くんはよく「うまく行かねえ時はプロデューサーがいるだけで心強いんだ」と発するのであるが、それは普段のプロデューサーの行動が天ヶ瀬冬馬くんに対して信頼をしているからこそ出た言葉であろう。信頼をしていないものに対して背中を預けることはできないし、貢献って信頼から生まれるものなのではないかと考え続けていた。

しかし、そう考えると自分の貢献はまだまだ志半ばで本当に自分以外のもののおかげで成り立っていて、自分は何もできておらず貢献を語るに及ばない人間であるように感じる次第である。

自分の行動を恥じて貢献などいう前に「実直に締め切りを守ることだけをした方がいいんじゃないかな?」と冷静になった。こう書いていてなんだかとても恥ずかしい。

信用を得てない内からその先のことに対して心配をするのはなんだか「応用ばかりやって基礎をこなすつもりのない人」の発言であった。基礎は一番大切なものである。基礎をやる前に応用はできない。

2020年7月18日土曜日

好きな人に好きと言えることは当たり前ではない

好きな人に伝わる形で好きという権利は当たり前のように有し続けられると思ったら間違いである。歴史とアニメ好きからすれば、推しや好きな人間が同じ時代、同じ次元であることは当たり前ではなくて割と本気で奇跡に等しい。

好きな人が亡くなったり、トラブルで2度と言えなくなる状況になったりする可能性を考慮できていない(※余談1)。乱数のごとく突発的に自分の推しに直接的にお金を落とすことができなくなる状態は、ある日突然起きてしまうのである。亡くなるというのもパターンは存在し、天寿を全うしたり、ストレスの末重い病気を繰り返しながら夭折する人もいたり、自殺する人もいる。

この亡くなるという自然界に生きている限り起きてしまう現象で、この自殺だけ間違っているといわれがちである。まず、本当に追い詰められると自殺するための挙動を無意識に行うことがある。例えば、筆者がストーカー被害にあっていた際「電車のきそうになる線路に惹かれてその方面に夢中で歩き始める」ことがあり、それで線路に自覚症状なく飛び込もうとしていた。ある出来事で意識を取り戻したときに飛び込まずに済んだが、気づいたら死に無意識で向かうことは、自然界で死期を悟り自殺する生き物(鳥類)と同じような状態なのかもしれない。

自殺という選択肢は一方向で見れば間違いではない。それこそ自分で覚悟を決めて選択した答えと行動を全否定するような言葉もまた追い詰める言葉に感じる。選択自体が間違っていたと否定してしまうと、その人の最後の最後まで葛藤していた何かすらも否定しているような気がしてならない。自殺は不幸であると思う我々の道徳観からすれば、正しい意見を伝えている善意に過ぎないだろうが、この善意こそが人を追い詰めるのかもしれないと考えながら今日の晩御飯を食べ損ねた。

自殺した方のニュースを見て、2か月前にもお気持ちを表明していたことをなんとなく思い返しつつ、色々とぼんやり考えていた。永遠のゼロの映画を見た時にちょうど当該人物も出演されていたため、印象がその時のものは残っている。芸能人をそんなに知らない私ですら名前を知ってるようなレベルの若手の超有名人が亡くなったとは何事があったのかと心配になる。彼にも彼なりの悩みがあって、いろんな立場や葛藤がひしめいて、その辛さを1人で抱え込みすぎたのかと思えてしまう。

国民的に知られた有名人とか恵まれている立場とか人をうらやむことは簡単にできるけど、その立場ごとに悩みは尽きないものだし、人間に生まれた以上考えてしまうのだし悩まないはずない、と私は思い込んでいる。当該人物もそうであったのだろうと考えながらニュースを見た。

悩み続けて本気で苦しすぎると逆に相談できなくなるのはわかる。もはや誰にも言えなくなるくらいしんどくて、そうなった時は自分が害悪を振りまくことを覚悟の上でヘルプを出すしかない。実は害悪だと自分が思い込んでいるだけで、そうではないことが多い。実は周りは相談を受けられなくて亡くなったことを非常に思い悩みながら今後を過ごすのであれば、ヘルプを聞きたいだろうし、そう言った死んだ後の未来の仲間が「聞きたかった」と泣くくらいなら、害悪ですが聞いてくれと騒いだほうが良い。…彼は非常に優しくて周りのことを考えてしまって、ヘルプが出せなかったのかもしれないけど。

ただ、それは事実であるとは言えず、本当に客観的な情報がないため妄想でしかないのだけど。

これは三次元の知り合いにも適応できる話である。生きている好きな人に好きと言えるのは当たり前のことではない。その人が突発的に亡くなることも勿論あるが、事情で何も言えなくなるのは可能性も高い。その相手が引っ越して転校やら転職していき、距離感が遠くなってしまい言えなくなることもある。両親の離婚を見て、相手を大切に扱って尊重し合えなければ仮に結婚当時は好きな人とも離婚をするというものを見てしまったのである。

結論は「好きな人には言える時に積極的に好きと言いに行こうぜ!推しが亡くなってから言わなかったからと後悔したくないじゃん?」。

推しが生きているタイミングで好きなところや好きなことを伝えたり、推しに会いに行ったりしないと亡くなった後に絶対に後悔する。わたしは西城秀樹さんのライブに行かなくて、推しの最初で最後のリアルイベントが彼の葬式になったしまった人である。それがどれだけ苦しくて、どれだけ悲しかったかと思うと当時を思い出したくないレベルである。推しは推せるときに推しとけ。

彼に、西城秀樹さんのブルースカイブルーを捧ぐ。

余談


余談1: 推しを勝手に長生きするものであろうと高を括ってしまうのは非常に暴力的な結論で推しに期待をしているだけに過ぎないのではないか。そんな状態で急に亡くなった記事を見るときの衝撃たるや最初は頭が混乱し、動揺してそのニュースが真であるか否かを調べ、本当であることを確認してから現実を直視して泣くことしかできなくなる。

2020年7月8日水曜日

私の思う女性性と女性性についての疑問

あまりにもセンシティブすぎて、数週間前に記事はできていたけど、何度も何度も推敲した。それにしては内容が薄いかもしれない。

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女性の定義は「人間における雌」のことを指す。哺乳類として子宮をもち子供を身体に持てるのが女性。子供を産むことが「女性」であるのだとするのは、生物的な意味合いでは正しいのだと思う。それは事実だろう。しかし、自分の認識が女性であるが身体が男性として生まれてしまった人が、女性ではないということはないと思っている。自分は色んな出会いをして性別についての疑問がぬぐえないままここまで来ている。女性性とは何か。

Google先生から出てきた女性性の説明



今回、女性性=女性らしさと定義して書いていく。女性性=女性らしさ=女性の特徴ということか。

〜性=性質=本来備わっている特徴
らしさ=その物事の特徴
特徴=他と比べ目立つもの

結論から言えば、私が思う女性性は以下の2点である。


  1. 精神が女性であるならば女性
  2. 子供のできる身体!=女性


高校時代からわたしがわたしを「女性」とくくる行為が正しいのかわからない。そもそもわたしはただの生き物であるのに、人から見られるのは生き物以前に女性であるかと考えてしまう。もちろん生物学的には人間の雌であろう。私が女性らしいとされる服装をするとき、自分は女装をしているのだと思うくらいには女性らしさに対してよくわからない。そういった人間が書いたものである。この考えの私が絶対的に正しいとも思わないけど。


-以下長文お気持ち表明文-


私はかつて出会った「体は男性であるが女性の人」と会話していた時に、性自認について考え続けていたことがある。好きな人は男性で、こころは女性で、体は男性。最初は周りからホモであると思われていたが、彼女は異性として男性を好いていた。勿論、女性は恋愛対象外である。話してみれば身体以外は女性であり、言動が本当にかわいらしかった。その姿は恋する乙女そのものであったし、個人的には「特に差がない」としか思えなかった。あの時の自分は純粋に彼女より女性ではないと思っていた。

ただ、彼女のような人が体を子供が産めるか否か以外の部分を女性にしたところで、子供が産めないというだけで「おかま」、「ニューハーフ」と呼ぶ風潮もある。女性と呼ぶのではなくニューハーフ。嘲笑しながらおかまという風潮。わたしからこれについて具体的なエピソードを書くつもりはない。今考えるとこの風潮は残酷だと思う。この地点で生物学的に女性ではないため認めないような脆さを感じる部分があった。勿論これは私の抱えている偏見である。

そのときに子供を産むという行為ができるか否かだけで性別が決まっている状態に疑問が出てきた。そしてそれは生物として、本能としては間違っていないのであろう。

もし仮に子供の産めない体に生まれた性自認も身体も女性の人がいたとして、その人は自分で子供を産むことができないから男性と認めるのかといわれるとそうではないだろう。子供を産める、それだけが女性なのか。

子供を産む、産まないは大切なのだろうか。多分、本能として子供を作りたいと思う人が多いのだろうと思う。結婚をする目的として子供が欲しいからと考えて、それで相手を見極めて結婚をするのだろう。その時、その人が好きだったとして子供が持てない人だったら愛が消えるの?その時愛した人が子供が持てない人だったらその人は女性ではなかったり、男性ではなかったりと思われるの?別にここで愛を育めなくなるのはその人たちの勝手だと思う。そういう思考を持つ人もいるだろう。

(わたしはそんなことで相手と別れないと思う。自分の血に対してのこだわりが皆無だし、本当に子供が欲しいであれば養子でええやんと思うので…)

子供が産めたとしても産みたくない人だっているだろうに、そういう人も自認が女性でも男性というのだろうか。性別を 子供が持てるか否か でジャッジするのは「らしさ」とは違うと思う。

スカートが女性性であるならば、スカートを男性がはく国の男性は女性であるのかといわれると否だろう。どうしてスカートを女性性の象徴とする?文化、年代、背景でも女性らしさは変わるというのに。胸があれば女性?胸のある男性だっているのに?

逆に女性らしい服装をしていなければ、肉体も自認も女性であったとしても女性とみられない。服装でらしさを作るだけでラベリングされるというのに、どうして子供が産めるか否かで女性性を判断できるのだ。ここまでジャッジがよくわからないのに。

この自分たちが勝手に決めつけた 女性らしさ はあいまいではないか。子供ができるか否かがジャッジされるところであるが、子供ができない人は性別不明になるわけでもない。だったら、同時に性自認だけ違う人だって女性であり、男性ではないのだろうか。

そこで分けられる理由がわかっていない。

自分自身が女性であると認識しているのであれば、他が何を言おうとその人は女性ではないだろうか。そこでその人を恋愛対象外と思ったり、恋愛対象だと思うかどうかはその人の勝手である。好みは自由だ。だけど、何人も「女性」と自認する当事者の女性らしさを否定する権利を有しているわけではない。

2020年7月2日木曜日

泣くなはらちゃんが好きだったなと



もう好きなドラマも7年も前の話になってしまった…という感想。


ずっと前から「泣くな、はらちゃん」というドラマが好きです。死ぬほど偏見なあらすじを書くと、主人公の夢女子が好きな漫画(連載終了)の二次創作をしていたら、ガチ恋しているキャラが二次創作ノートから三次元に現れて恋をする話で滅茶苦茶好きなんですよね。この夢女子は幸薄なので日々の鬱憤を二次創作で発散しています。

(はらちゃん好きな人から怒られるぞ)

夢女子がガチ恋しているキャラ(はらちゃん)を演じるのはTOKIOの長瀬さんで、ご存知?の通りめちゃくちゃコミカルです。


夢女子は美人でいい感じにおっとりしてておしとやか(写真では女優さんが死ねってやってるけど;非常に越前さんらしい)なので職場のイケメンから好かれます。ただ、その職場のイケメンは職場の若くて綺麗な女の子(悪魔さん)に好意を抱かれています。ただ、イケメンがまるで眼中にない夢女子とイケメンと悪魔さんの三角は「職場」という壁で悪魔さんとイケメンがもだもだしている印象です。(後の人間関係はかなりのネタバレになるので伏せていく)


悪魔さんはマジでかわいかったし、めちゃくちゃ好きなんだよな…それこそ昔は「三次元上だと結ばれない感じがして辛みしかねえな?」と思いましたが、社会人になり職場の人に手を出さないよなぁと今となれば思うところです。本当に葛藤するよなぁ…
(職場の人への気持ちなど、社会性と自分の気持ちとの葛藤なので…)

三次元と二次元のつながりみたいなものが本当に良くて、本当に良かったのでもし興味がある人がいたら見てほしいレベルです。自分はドラマは本当に見ないんですがはらちゃんは全部リアルタイムで見ましたね…
(もし語れる人がいたら語りましょう。)



本当に薬師丸ひろ子さんの役柄が好きすぎて「ふおおおお」となったので見てほしい。自分は彼女の気持ちが痛いほどわかる。

追伸:在りし日の菅田将暉さん


2020年6月27日土曜日

本を勧める意味

私はある程度親しくなった人には自分の好きな本を教える傾向にある。おそらくある程度親しい人には本をダイレクトマーケティングのごとく渡したり、お勧めを教えたりしたと思う。それには色々と理由があり、一応自分なりのささやかな思いやりの中で生まれたものである。

お誕生日とかおめでたいとか何かにつけて本を送る。基本的に贈る人それぞれに本の内容を変えるようにしている。合う古典はそれぞれ違うと思うので。勿論親しくない人とか特に思い入れのない人には贈るつもりはないし、教えることもない。ブログなどには書いていることが多いけれど、その人に合わせた内容のおすすめはなく話すようになると思う。

こうして本を提示するのには理由がある。

私には同性の友人と異性の友人がいる。特に異性の友人の場合、今後その異性の友人に恋人ができたり、結婚したりすることがあると思うが、その時に僕がその友人の味方を表明することは難しい。基本的に恋人のできている異性の友人とは疎遠にするようにしている。その恋人さんに不用意なプレッシャーのようなものを与えたくないというのが理由である。

苦しいときに寄りそう役目はお相手の役割であり、恋人ではない私は完全な部外者として遠くから見守る以外のことはできない。それこそお相手さんに対して申し訳ないことをしているようであるし、浮気願望?不倫願望?みたいなあらぬ方向に発展しても困るし。

ただ、心に寄りそうができるのは相手ができればお相手の役割であると思うが、僕が今の地点で本をお勧めするのは二つあげられる。


  1. 本は裏切らない
  2. 言葉は心に残ってさえいれば本当に苦しいときに自分じゃなくてもその人に寄り添うことができる。

1の場合、人の性格はあいまいであり時が経てば変わり果てることが多いけれど、本は色あせないし恒久的に変わらない。人間の性格などといういびつで一緒になっても正体の見えないものよりも、本は変わらずに味方であり続けてくれる。私の今の性格はこうであるが、私が数年後にどんな性格をしているのか想像がつかない。人を傷つけて傲慢になりいびりちらしているかもしれないし、今のままかもしれない。もしかしたら自殺が成功して死んでいるかもしれないのである。それこそ三か月後すらわからないのに数年後なんていう遠い未来の自分や周りが良かれという状況であるとは言い難い。今の自分が好きな人たちに未来でも安定した味方がいるように古典をお勧めする。味方を与えたい意味で。

2の場合はこれは純粋な願いである。本当に苦しくて、味方が誰もいない状態になることが人生にはめぐってくることもある。そのタイミングでは恋人すらも味方ではないかもしれない。勿論そんなことはない方が幸せであると思う。ただ、そうしたときに誰も味方でなくても、古典の言葉は味方になってくれることが多い。一人じゃないとか、自分だけじゃないと思える本や言葉があれば、未来のその人が救われるかもしれないと思っている。僕はそういったときにその人の味方ではない可能性がある。理由は色々とあるだろう。その人が既婚者であれば色んなことを考慮して味方ではないだろうし…

ただ、今こうしてお勧めをしたりダイレクトマーケティングを行っている人は、今の自分の中では本当に好きな人しかいない。今の自分はその人たちの味方でありたい。だから人生で味方になってくれる言葉をそれこそ頭の片隅程度にあったらうれしいという期待値ゼロの状態でも渡す。好きな人たちが未来につらいときに、今の自分の意志だけは味方でありたいと思う。未来の自分はそうじゃないとしても。

以上である。理由はかなり単純だが色々と考えているつもりである。自分は恐らく誰とも一緒になることはないだろう。既婚者なら既婚者と出会ってもまだ大丈夫そう?に見えるけど、未婚が既婚者に会うとなると絶望的であるため、縁が切れる人は多いと思っている。この世界に自分を一番よかれと思うような人が存在しているわけでもないだろうし…

古典は言葉を与えてくれる。言葉は思考をさせてくれるツールである。人生で困難に遭遇することは多いけれど、考えることができたら、助けてほしいときの支えになったり、伝えることを行ったりするための手段を作ることができると思う。僕はずっと友人の味方ではいられないと未来を危惧している。だからこそ、今のこのタイミングで本を差し出して今の自分の気持ちだけでも未来でその人の味方でありたいと思う。未来の自分が仮に味方ではなくても、今の自分は本を勧める人の味方であるからその人を支えられるもので自分の最大限のものを差し出したい。その願いだけに尽きる。

2020年6月25日木曜日

人の葛藤は多種多様

この日記は今は心に余裕のない、某で出会った某さんに捧ぐ。内容自体に他意はない。

自分の良かれと思うことが他の人からしてみると等しく良かれと思える側面ばかりではない。自分からすれば良いと思えることでも、当事者は見えないところで苦労をしているケースは多い。

○○についての苦しみというのは無限にある。その苦しみは人それぞれ抱えていて、その立場にならなければわからない。故に僕は苦しみを理解をしていない前提でその人と話す。ただ、その立場ではないからと言って自分にとって良かれと思うことで、その人が葛藤していることで嫉妬するのはよろしくないように感じる。

例えば卒業した高校が工業高校→工学系だったので、よく人からは「工業系で女性なら男性が選り取り見取りなのでしょう?」と言われることが多い。その時「選り取り見取りと言いますが、自分が好意を抱く人が自分に対して興味がなく、興味のない人から嫌な好かれ方をする場合は幸せなのでしょうか?」と思う。そこにはその立場ではない人にはわからない葛藤がある。

(中学時代にサイバーセキュリティなら専門分野で食っていけそうだし独身でも一人で生きていけると思って志しただけであり、モテは考えていなかった)

「異性に囲まれればモテモテなのに?」

逆ハー(※逆ハーレムの略)であるならば幸せのように見えるかもしれない。現実問題として逆ハーだとして好きな人から好かれず、変な地雷男だけが寄ってくる場合は不幸な確率の方が高いだろう。世間一般的に女性より男性の方がパワーが上であるため、男性に好意で暴走をされると力では勝てない。故に恐怖の方が大きい。男性の中にいればモテるのでは?と考えてしまうとき、ここまで考えることは難しいとは思う。一方向で見たら幸せそうに見えることを全てだと思うことで、全体を把握したつもりになるのは違うように感じる。それは怠惰からくる傲慢な考えなのではないだろうか。(あくまで自戒として)

特に工業系の場合は女性が少ないがゆえに、男性の好意から「この人で妥協しておくか」というような諦めを感じるものを抱かれがちなのである。俗に言う「工業高校マジック」で(思春期に起きる不幸な勘違いが起きて女体が)モテただけに過ぎない。恋に恋している好意を、それを自覚してないがゆえに彼らは自己愛を押し付けてくる。ある意味、好意を抱かれたところで、自分に対してキープを見るような好意を与えてくる人が多い。

今の自分が今のまま工業高校時代に戻ったら、その恋に恋を押し付けてくる相手がいる事実が気持ち悪くて発狂することは間違いなしであろう。男性ばかりだから好いてくる相手は僕を僕として見ているわけではなく、僕ではない何かを見ている状態を感じながら学生生活を過ごすことははたして幸せなのであろうかと。そこから生まれる恋は不幸になるのではないかと思えてしまう。なんだかこのタイミングで好意を抱いてきた人とは対話ができそうにない。

この考えに至らず周りの異性がたくさんいて選り取り見取りだと言うのであれば、もう少し考え直したほうがいいと思う。付き合える許容値の人(理想でもなんでもいい)と付き合うのはかなわず、他に追いかけ回される生活がモテであるのであれば、モテたい人はその一瞬の虚無なモテを謳歌して現実を頭に叩きつけたほうがいい。

※工業系であった大学では大学2年の夏から教室の隅で講義を取り、人との関わりを友人以外無にしたため「モテなかった」ので非常に平穏な生活を送ることができた。わたしはそんな大学時代が1番好き。クラスに束縛されなかったし。そして、世界で1番尊敬しているA先生から「○○さんは口先だけでは見た目について好みだというけれど、対話ができる人が好みなんだねえ。対話ができる人と一緒になったら幸せになると思うよ」と言われて納得した。

「x年後に相手がいなかったら付き合ってください!」

工業高校時代から言われるんだけどこの発言から前提条件が「こいつとは絶対に付き合わんぞ」というわかりやすいものが漂うあれを感じる。私はおそらく神なのでこう宣言されるのだろう。こういうことでご利益があるのかもしれない。

上記の発言を人生で何度か言われていたが、これを言われて最初は「お前が僕のことをキープだと思うのは勝手だが、僕にだって選ぶ権利はあるのだぞ」と叱責をしていた。本当に好きならこんな遠い発言をしないので「ああ、この人は恋ができていないことに対して自分のような都合の良い媒介を作ることで、一種の現実逃避をしているのだろう」と初手で思う。事実としてそうした発言をしてくる人はすぐに相手を見つけて幸せそうになっていくのをみるし、内の1人は授かり婚で結婚した(実話)。僕は櫻井神社か。最近は若さが失われて反論をいうことすら諦めてしまい、ある時はもはや自分に対して笑うことしかできなくなっている。まあ、自分からはこうした発言は言わないようにしている。大変失礼なものなので。

ただ、周りから言われるのは「都合のいい人だと言われたとしても、そもそも好意を抱かれるということ自体がないので自分なら付き合うだろう。あなたの発言は結局は相手を選びすぎなのだ。」と言われる。いや待て、自分を自分として見る相手と付き合わなかったら、そもそもそうした関係などことごとく破壊されるのだし秒で破局するぞ。それは逆に双方に失礼な関係なのではないか?これをいうと発言を理解をしてくれる人と、お前それはモテるな?と煽ってくる人がいるのでとてもつらい。理解してくれる人はモテモテだったり大体相手がいたりする。

最近では「そんな関係性は学生で卒業しとけよ」というものを自慢してくる人もいるし、スペックを見られているだけで中身を見られていない関係をドヤドヤされることもある。対象から身体しか魅力を感じられてない人もいる。それこそ「モテる=数だけで見れば告白をされる」とか「モテる=チヤホヤされる」を真とする虚無がモテるだと思っていて、この人は学生時代には本当にモテたことがないんだなと思って悲しい気持ちになることもある。真にモテるとは好きな人から好かれることなんじゃないかなと僕は思えて仕方がない。

痩せ過ぎていることが不健康が故に不幸な人だっているし、顔がいいことで嫌な思いをしている人だって世の中で探せばたくさんいることだろう。一般的に素敵に見えることが必ずしも全てそうであると言い切ることが僕にはできない。人それぞれその立場ならではの葛藤を抱えて悩んでいることを忘れたくないと思う。そして、その悩みは自分も相手のことを理解ができず、相手も自分の悩みを理解できない。気持ちに寄り添うことはできるけれど。

2020年6月24日水曜日

凡人が行う選択と集中は視野を狭めるだけに過ぎない

異論は認める。

私は控えめに言って凡以下ですが、努力で凡のように見せることに努めています。そんな私ほど選択と集中の似合わない人間はいまだかつて出会ったことがないくらい色んなものに興味があり、色んなものに対して勉強やら趣味やらをしていると思っています(が、私以上に色んな事に首を突っ込んでいる人は沢山いることでしょう)。よくお世辞を伝えてくる人たちから「色んな事を知っているね」といわれることが多いです。それはわたしの興味がたくさんあるからだと思います。

私の興味は元々それほど広い範囲ではなく、好み自体は偏りのある人間です。ある時周りの人と会話をすることができない孤独感に苛まれて、色んな人の勧めを全力で挑戦して合う合わないを知ることで興味がどんどんと増えました。興味が増えたら色んな人の話が楽しくなったり、もっと聞いてみたいと思えるようになりました。特に最近では一人で放浪する(※余談1)際にその土地で出会うご老人の方々と会話をする機会が多いのですが、その時に会話についていけたり、そのご老人の会話の内容に関連する事柄を引き出したりしたときに心地よく話してもらうことが多く、その時に色んなことを吸収しようと思ってよかったと思うばかりです。

私は色んなものに手を出してそしてなぜこれが好きな人はこれが好きなのかとひたすらに考えます。そうすることがとても楽しいのです。わたしは人間は嫌いですが、人間が非常に大好きなので人がどうして興味を持ち、好きになるのかを知ることは好奇心を刺激してくるため本当に豊かな気持ちになることが多いです。

特に最近では「ああ、この人はこれで好きだと思ったのか(※余談2)」と理解することができた時にジャンルに手を出してよかったと感じます。基本的にその物事が好きな人がどうしてそれが好きなのかを理解できた時、自分も好きなものが増えた感覚がしてすごく幸せな気分になるのです。人の好きなものに触れて、その好きなものに対して考えることができるようになると好きを共有できるような感じがして、個人的にはとても楽しいのでお勧めします(?)

それをある時に人から「○○さん、色んなものに手を出しすぎなんだから選択と集中をしたらどうなんです?」といわれたことがあります。話を聞いてみれば「技術一辺倒になればいいのに」といってきてがっくり。何もかもに興味があるだけの私は彼からすれば広く浅くを地で行こうとする人間で気持ちが悪かったのかもしれないです。平たく彼の話を意訳すればこのような形でした。


  • セキュリティをしているのに歴史なんて無駄なのでは?
  • 古典を読むよりビジネス書を読んだ方がいいでしょ
  • 多く手を広げるほど人生は長くない。今から広げすぎるより狭めた方がいい


彼の美意識をとやかく否定するつもりはないですし、それで成功をされているのであればその通りに過ごせばいいと思います。ただその考えを人に押し付けてこなければ何でもいいですよ。それこそ私個人の性格として自分がやりたいことを今から始めないと年を取ったときに後悔するような気がしています。そう思うか否かは多分人それぞれですし、選択と集中により○○を極めたい人もいると思うのでその考え方が間違っているとは言いません。もしかしたら私が夭折するかもしれませんし、その場合は選択と集中を行っていなかったために何も功績をあげずに死ぬ自分を悔やむかもしれないです。その時はその時です。

個人的に、選択と集中を行うと視野が狭くなるだけに過ぎないと考えています。それこそ○○に対して天賦の才をお持ちであるのなら選択と集中で特化させればいいと思います。しかし私も含めて大体の人間は凡でしかない。

個人の見解ですが凡は選択と集中をして視野を狭くすると考え方が凝り固めやすいのではないかと危惧しています。柔軟性に富むためには色んなことを(もちろん自分が目をそむけたくなることも含めて)知って、多様な物事に対して考えらえるようにするのが戦略としては良いのではないかと思っています。知識は広く持っておくとその物事と遭遇したときに取っかかりやすくなると思うのです。

勿論、選択と集中は今後の未来から見ればもしかしたら正しくて、こうした私の考えが間違っている可能性を秘めていることは否めません。ただ、私は色んなことを知りたいし、色んなことを選択肢として残しておきたいと思います。知るというそれだけでそれを知っているほかの人との会話をすることができるのであるから、それだけでも教養として良かれという部分は大きいですし……




このツイートはかなり自分の思っていたことが言語化されていて非常に好きです。

「選択と集中」と株主総会で発する優れた経営者は魅力的に映るのかもしれないですが、こうして言葉を書いている私も含め大体は凡人でしかないのです。私は広く浅くでいいので教養を増やして人生を豊かにしたいです。

正直に何かで功績をあげることを人生の目的にはしていません。物事を知るために知る手段に成りえる何かに首を突っ込みたくなることはありますが、目的はそれだけなのです。知りたいという欲求を満たすために行動をします。知りたいと思うと周辺知識も得ようと努めるようになるので教養も深まることが多いです。個人的な見解として教養は視野を広げると思うので持っていて損はないと考えます。

余談

余談1:私が出没する場所は大体史跡が多いので、史跡へ行くと若い人よりもお年を召した方の方が多い印象を受けています。勿論若い人もいるのですが、割合としてはそれほど多い印象を受けません。私は史跡を一人で見ていることが多いため、非常に声をかけやすいのか色んな面白い話をしていただくことが多いです。特に話していると郷土史関係を聞くことができるのですが、全国津々浦々の戦国武将の知識を叩き込んでいたことがこれほどまでに役に立つ日が来るとはと感動している次第です。戦国武将が思いつかなければ幕末か江戸時代の話をとりあえず思い出しながらその人の地元の話をすることが多いです。

余談2:例えば「どうびじゅ(どうして私が美術科に!?の略語)」を死ぬ気で推しているSecHack365の思索のオタクの熱が余りにも凄くて、どうびじゅに手を出したことがあります。そして「なるほど…主人公のまっすぐさと周りの人たちのやり取り、そして一番は工業系の人間に刺さる内容…これはハマるのも無理はない」と思ったときに感動したのですわ。

2020年6月23日火曜日

満足いくくらいオタ活をしきったので卒業

「あーやり切った!やり切ったよ!」

キャラ推しのオタ活を全力疾走で駆け抜けました。今の心境は満足です。ようやくゴールに来たような気待ちです。今ついにワシの穏やかに推し続けているコアなキャラ以外以外は卒業だなと。わかりやすい例で言えば冬馬くんと曹操様とアムロ・レイくらいかな。

ゲームのオタ活をやり切った達成感がすごくて満足したので、これを機にほぼほぼ足を引きます。健康的な課金額だったので、無理もなければ借金などは特にないです。とても満足いくくらい課金しました。

「ここまでやり切ったのだからもういいだろ」!と思えるくらいにオタ活をさせて頂いたので、別のところで別のオタ活をします。オタクはジャンルが広いのです。それこそ元の守備範囲の歴史研究とか無限にしたいし…

キャラ厨だったのでソシャゲも好きだったのですが、達成感に包まれたと同時にソシャゲへの愛も醒めたのでした。ソシャゲの卒業はメインだとグラブルとかかな。

実は沖縄回以前の精神を破壊した際にあつめていたグッズはすべて処分していて、一応まだSideMはモバだけやってるけど、ステくんは手を引いています。SideM以外は手を引いたのです(`・ω・´)

じわじわと足を引いていて、完全に沼から足を洗った状態になっています。人が満足というか飽きる時ってこんな感じなんだなと痛感している次第です。

SideMのコラボカフェなどは依然として参加するつもりではありますが、リアルイベくらいになるかもしれません。わたしはグッズをほぼ集めなくなると思います。

冬馬くんのグッズも縮小気味でしたが、服関係もそろそろJupiterの服がボロボロになったら捨てるようにします。衣替えみたいな。カバン類も少しずつオシャンに変えていこうと思う。いつも使ってるサンリオコラボのカバンはいい感じに大きな鞄が見つかるまで現役にしますけど…。時計は気に入ってるからずっと使いますよ。Jupiterの財布はボロボロなのでそろそろ買い替えそうだけど…。

今後はアニメ・ゲームのシナリオ厨として生きていきます。オタ活好きなのでオススメの漫画は読むぞい。後は…最近本に課金していてオタクグッズはほぼ買ってませんでしたが、今までのこのムーブをやめたので投資あたりにも金をかけていこうと思います。オタ活をしていた頃から貯金はしているのですが、ようやく投資に本気を出して行こうかなとは。ゆるふわ投資でちょっと資産は某騒ぎで増えたけどさぁ…トライアンドエラーをしたいってワキャキャする!

続く

2020年6月22日月曜日

技術は権威じゃない

技術は権威ではないと考えています。持つものが傲り高ぶるために技術を使うのではなく、人を支えるために使うものではないでしょうか。大切な意識ですが、技術とは人の生活を豊かにするためのものです。技術を持っているという理由で(この言葉もかなり傲りを感じるのですが)自分から見て持たないと見える人を馬鹿にするような言動をとることの出来るものではないと思います。

技術を持つものとしての矜持として「技術という力を持つからこそ、その力を人のために活かすことが大切だ」と考えています。まだ自分には技術者として胸を張ることができるくらいのコア技術がないのですけれど…

根本の話は私には技術を語れるほどの力がないですし、人に対してのアレそれを書けるほどの立派な人格ではないので触れませんが、このムーブメントに対して感じたことは書くことができると思い、ちょっとTwitter言論がアレになりそうだったのでブログに避難しました。

私は言論が燃えてる人を見るたびに「僕ももしかしたら歳を取るごとにこうなる可能性があるのかもしれない。今後技術をつけていくごとに技術を権威だと思って、他者を傷つけ傲り高ぶることをしないように戒めていこう。僕は周りの人たちに恵まれているから特に自分の発言には気をつけなければならない(※自戒なので強い言葉)」と自省します。

私はありがたいことに素晴らしい環境で働くことができているし、自分の周りにいる人たちも本当に素敵な人たちだと思っています。だからこそ、この素敵な環境は当たり前ではなく与えられた立場を意識して自分の能力を他者の幸福のために使いたいし、誰かを傷付けるために自分の立場を利用して発言をしたくないと思います。素晴らしい環境を与えられた側は、与えられた運を活かして他の人にも幸せになるような行動をしていくのが理想なので実践したいと思います。これはあくまで自分の話ですが…

他の人にそれを強制することはできませんが、今回の一件で改めて自分は傲っていないかと自省をしました。

同時に自分より歳をとっている一部の人を「全て」とひっくるめて発言もしたくないです。何故ならそういう傲り高ぶる人は一部でしかないと思うからです。あの年代の方で素晴らしい人と出会っているからこそ、一部の人で世代の印象を決める必要もないと考えます。そう「全て」とひっくるめてしまうと、自分も同じように攻撃性を曝け出しているだけに過ぎないように感じられます。

発言を間違うことはあるし、未来の自分にもあり得る話なので観測者の自分は内省します。自分が技術力と社会的な立場も得てしまったら、そういった言動をするかもしれません。そうならないためにはこうした 技術を権威のように振る舞う人の燃え盛る事象 が起きたときは、当事者を責めるのではなくて自らを反省します。

自分ごとにしなければ、他の人に対して責めているような言論になってしまいます。私はそれもそれでおかしいと思うのです。責める行為は、攻撃性を発現したがゆえに燃える人と同じ立場になってしまう気がして、自分には美しく感じられません。

間違ってるとか正しいという観測者の基準で変わることについて自分から何もいうことはできません。自分ができることは美意識的に良かれと思うことのできない言論に対して、自分はこのような言論をしていないかと反省することしかできないのではないかと思います。そこに責めるべき他者を作る必要はないと思います。

…本当に強い人が他者の人格を否定するのは美しくないと思うけど、それを否定すると同じ穴の狢になってしまうので自省。

「技術は権威じゃない。生活を豊かにするためのものだ」…これはわたしが某キャンプで教わった唯一身につけたもので、1番手に入れてよかった美意識です。

2020年6月21日日曜日

歌の話

まずは感謝と謝罪を。聞いていただきありがとうございました。57回再生されててちょっと胃が痛いです。多分もっと再生されている人とかいるんですが、自分には多すぎる……耳汚しをすみません。

こんな感じで出るんですね~

ちょっと懺悔したくなったので書いています。普通に申し訳なさ過ぎて懺悔したい。後は音声データは記事投稿後に消しました……


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急にTwitterの録音機能を使ってみたくなった。きっかけはSecHack365の同期が「コーヒー飲みすぎたー」と若々しい声を投稿していてかわいい!!!!!!と思ったところである。ちょっと好きすぎて逆にいいねが押せなかった。(これは宮沢和史氏のツイート(※余談1)を読んでいるときと同じ状態)

実はTwitterの新機能が出るたびに何かしら挑戦しているわけであるが、声関係だけは声に対してのコンプレックスがひどくてできないと思っていた。

というのも小学生時代から今までずっと「おかまボイス」といわれ続けているため、本当は自分の声を人に聞かせることが苦行なのである。最初は母から言われ、同級生たちにからかわれ、自分でも気持ち悪い声であると思っている。このコンプレックスは声を整形できるのであれば絶対に整形に手を出すレベルのものである。(自分の声が非常に嫌い)

たまに人に声を聞かせているときに苦しくなる。かわいくない声だねと昔イケボの先輩ににこやかに言われたことも結構なトラウマで、その時はその先輩の目の前ではかわいらしい声を作ったりなどした。イケボにあらがえないんだよな。その時はなんだか声優のような気持ちだったが、そうするとさらに地声が気持ち悪くなって自分の声に対して「どうすればいいんだ」ともやもやと悩み続けていた記憶がある。

そんな私ではあるが歌なら習っていた(※余談2)ので声をカバーする技術力くらいは持ち合わせているため、録音機能を使うのであれば歌にしようと思ったのである。気持ち悪い声を世界に垂れ流さなくて済むと思ったことが大きい。今考えると何やってんだこいつって感じではあるが………

その時に曲を選ぼうと思ったとき、黄砂に吹かれてしか思いつかなかった。西城秀樹さんの曲とかもあるけど、あれは歌の上手いイケボのための歌なのでおかまボイスの私には声質に合わないというな…技術力の方でカバーできないかと数年くらい歌い方を模索しているところ………

黄砂に吹かれては工藤静香さんの曲であるが、工藤静香さんが本当に顔も声もかわいい。今年の1月くらいからハマっているけど、すべての人に押し付けたくなるくらい好き………ああいう女の子は好みなんだ……(Instagramで娘さんをフォローしている)

黄砂に吹かれての工藤静香さんの魅力は声もさることながら顔がいいし、一番は振り付けを踊りながら歌っているのがアイドルみあって好き。かわいい。

話を戻すと僕は声がアレなので適当に録音して投稿しようと思った。ただ、歌おうとしたときに黄砂に吹かれての歌詞を忘れてしまい購入していた一周聞きながら歌詞をインプットをする。そして一番は歌うときに声を大きくするわけにもないしなぁと思いながら、家事をしているときに歌うくらいの声量で歌う。家事の時はそんなに声を大きくして歌わないじゃん?うちの親の歌いながらふんふん家事をこなしている感じを真似した。
(黄砂に吹かれてを歌いながら掃除機をかけたり、服を畳んだりするのは楽しいっす。)

録音した後にこいつなにやってんだ………と思いながら投稿した。そして一度投稿してから初めてきいたけど普通に声が遠い。「もうすでに敗北(何に?)」と思いながらすでに誰かからきかれている事実をかみしめながら、うわあああああああとなりそうだった。なら投稿するなよと自分でも思うが、自撮りをする兄ちゃんも投稿してから恥ずかしくて消すより残しているしな……と考えつつ自分の愚かさに恥じ入る次第だった。

しかし、その後お世辞をいただくのが「うまいですね」と言われて「合唱団の時の僕ありがとう…」と思ったと同時に、声についてもなんか褒められてしまい声でほめられたことがなかったので照れて死ぬところだった。身に余る言葉をありがとうございました。

ただもう二度と録音機能で投稿しない。機能を確かめたので満足。(本当に声についてほめられたときに照れてしまったので割りと画面の前で無限に顔を真っ赤にしていた人)

油断したところでほめられるわけもないと思っている部分をほめられると照れて軽率に他者に惚れそうになるので、自己肯定感をあげなきゃ………


追伸:明日女性性のブログの投稿をするつもりですー。一週間内容を精査したのでようやくいけそう。

余談


余談1:宮沢和史さんはアラートでツイートされたら表示するようにしているし毎回尊い…となっているがあまりにも好きすぎてRTをすることがためらわれている。というのも本当に好きなものである場合は共有することがしのばれる。その状態を独り占めしたくなるというか、人に知らせたくないとかある。自分一人が知っていればそれでいいみたいな。
(最近、本当に好きになってしまうと逆に共有できないんじゃないかと思い始めているし、それがまたこじらせているような感じがしてならない。)

余談2:小学校の時に合唱団に入団していて、そこでソプラノのエースだった(一軍というべきか…合唱団の主催者の先生がエースと呼ぶ合唱団メンバーの中では誉れ高い?称号があり、それだったという話です)。その時に確か関東甲信越大会へ行ったのです。後は国で五本指に入るようなオーケストラとのコンサートとかもあったので楽しかったな…。それから中学時代も歌関係では技術力だけはずば抜けていた(と思う)ので、大学の教授から音大のスカウトされたりしたなど。今は社歌を歌うときにたまに本気を出して「おおー」といわせるのが楽しいと思うくらいの趣味。

2020年6月20日土曜日

ナンパの話

かつては街の音を聴くのが好きだった。人の流れとか車の音、いちゃついてるカップルの女の子のかわいらしい声とカラスの鳴き声。飛んでいく鳩の羽ばたきの音。クラクションに驚いたり、遠くから聞こえる風船の割れる音で悲鳴を上げたり。子供の泣き声に心配をしても助けることができない自分にもどかしくなる。別の視点を探せば話したことのない誰かの生活のワンシーンを切り取っているような感じがして、音から人の営みを探すのが好きだった。

私が音を聞かなくなったのは二度目のナンパをされたときから。それ以降は町の音はまったく聞かないでナンパが来た時に無視をするためにいつも好きな声を聴くことに集中するようになった。

一度目はナンパとは言えない…制服を着て予備校へ向かっていた時に不潔感の極まるおじさんから急に声をかけられた。「お嬢さん、5万円で遊ばない?」と聞かれ、その時にこれがうわさに聞くナンパであろうと洗礼を受けたと思った。普通に嫌だなと思って苦笑いをしても離れてくれなくて、無視を決め込めば「お高く留まっているつもりなのか」と捨て台詞を吐かれて去っていくおじさん。その姿は知らない他人に対しての発言としては非常に申し訳ないのであるが、大変醜いものを感じた。
あの時ナンパだと思って無視をしたけど、よくよく考えると援助交際を求めていたのであろう。高校生によく聞くよなと今となっては思うところだけど、高校生だから声をかけられた案件だったのだと思う。5万でJKを買おうとするなんて安すぎないかと思うけど、世間的に5万ってどうなんだろう。そもそも売春自体が法律違反なんだけどさ。

二度目は大学生で、良くわからない茶髪のお兄さんから「お茶しようよ」と無限に声をかけられて「あはは……困ります…」と言いながら去ろうとするが、ずっとついてくるお兄さん。「一目ぼれしたんですって!」といわれても「ナンパってこれが常套句なのだろう」と思うと彼をどうやって突き放すべきか歩きながら思案するしかないのである。茶髪というそれだけで苦手なのについてこられて胃が悲鳴を上げ続ける。
こうしてつられる女の子がいてちょろいと思い、成功体験によって自分のような日陰者にも声をかけてきている(むしろ日陰者であるからこそ落としやすいと思われたのだろう)と考えを巡らせながら無視を決め込むがしつこく声をかけてきてついてくるお兄さん。結局無限にアイデアが浮かばず、結果として無視をし続けていたら「本当に最低!!!女のくせに!!!!」といわれて去っていった。もはや何もわからなかった。東京の駅はダンジョンのような作りであるので端から端までは結構な距離があるのだが、結局彼は入り口から出口までついてきた。あまりにもついてきたのでちょっと怖かった。

一度目から通報したほうが良かったのであるが、二度目で心が折れてしまったのでそれ以降はヘッドホンを装着して生活をすることが当たり前になった。今ではヘッドホンの音を聞いていないと不安なくらいにはヘッドホンがお守りの役割を果たしている。本当は音を聞くことでその町の特徴とか、今の姿とか感じられるのは幸せなのだと思うのだけど、自分にはもうそれをすることはできない。

三度目からは声をかけられてもヘッドホンがすべてを遮っているので何も聞こえない。いつも本当に苦しいタイミングでは大切な曲を聞きながら無視を決め込んでいるので、目の前の人の形相が悪くなっていく光景を大切な歌をバックに眺めるのは正直悲しい気持ちになる。でもヘッドホンがなければ自衛もできない。早く年をとらないとヘッドホン生活を抜け出すことができないのであろうと思うと、性別に対してとても悲しいものを感じる。年を食ってもナンパされてしまう人生じゃないと熱く信じながら………

ナンパは声をかけられるだけに過ぎない。声をかけられた側もかける側も双方に不快な気持ちが与えられるものであろう。ナンパで苦しいと思ってもやりたいと思っているのかもしれない。実はナンパをされる方が何のためにやっているのかわからないけれど、色々と想像をしてフォローをすれば出会いがない気持ちは社会人になってからひどく痛感する部分であるため、そういうことをしないとやっていけなくなる気持ちもわからなくもない。声をかけられることは正直何があるのかわからなくて恐怖であるが、彼らも出会いが欲しくて苦しいのかもしれない。ただ、声をかけられた側に捨て台詞を吐き捨てる必要はあるのかはわからない。自分にはその境地が想像もつかない。

まあ、ナンパ力を上げようとするくらいなら修養を励めよとは思う。

2020年6月14日日曜日

○○女子というくくりは必要なのか

中学のはじめに大河ドラマの天地人(※余談1)が流行ったころ、同時に「歴史女子=歴女」というワードが世間に浸透してきた。私は当時から歴史が好きだったこともあり人から「歴女」と呼ばれることが多かった。

歴史が好きなだけなのに、何故か性別でカテゴライズされることに対して憤りを感じ、当時は歴女と言ってきた相手には怒っていた。今でも○○女子というワードは個人的に苦手である。ただ、当時は言葉を表現することが苦手なので、今となってはその言葉はただただ感情的であったかもしれないけれど。

疑問が大きく膨れ上がり自分に対して困惑していき、ある時から数年ほどネットでは男性のふりをし続けていた(※余談2)。その時に男性と会話するうえでは女性であることを知られるとクソ面倒くさいことが分かったのと、同時に女性は特に男性と会話をする上で既婚男性に対しては女性と会話するときと同じようなテンションで会話してくれることが分かった。500人の相互フォローさまたちのおかげである。

私が「僕」という一人称を使い始めたのもちょうどその頃からだった。女性であるというだけで括り付けられることが本当に嫌いだった。高校時代に性同一性障害の知り合いができ、彼女から様々な話を聞いていくと性別についてのあいまいさについて考えることとなる。正直にこのタイミングから性別そのものに対しての疑問が大きかった。今も性別に対しての疑問はぬぐえない。

その疑問を抱えたまま、高校と大学は情報系を突き進んでいた。高校時代はSTAP細胞の小保方さんにより「理系女子=リケジョ」というワードが流行り、それも嫌な感じの言い方であることがニュアンスでわかるようなものであった。結局、STAP細胞問題で小保方さんの理系女子というものが馬鹿にされ始めていく風潮がどんどんと出てくるにつれ、女性でくくる現状に吐き気を催すくらいの嫌気がさした。あの時はSTAP細胞と小保方さんの問題であって、理系にいる女性がすべて問題を起こすと思われているのかと突っ込みたくなるような流れであった。

大学は「情報系の女性が少ない事実」を目の当たりにしてから、同時に情報系の男性の一部で嫌なことが自分の周りでも起きた。誰とは言わないけれど女性であるというだけで舐められているのと、彼からすれば性欲の対象なのであろうということを感じて「女性らしい格好をする」ことが危険なのではないかと思わせてくる人もいた。危機感を覚えてかりそめの恋人を作るなど、本当にどうしてこんなことをしなければならないのだと思うことが多かった。

???「どうせ、あんたは色んな人と遊んできたんだから、それこそ俺と一夜遊んでも何も減らないでしょ?付き合ってくれてもいいのにどうして?」

これ、告白(笑)で言われた発言で、そこから人に対しての好意をずっと考えては葛藤する次第。自分は人に好意を持ったりそれを伝えたりなどして自分が好意をぶつけた相手を傷つけることはしたくないと思うきっかけとなった言葉である。女性らしさを減らせば彼らは寄ってこない。女性らしい格好をしたいとは思うけど、同時に女性らしい格好をすることで寄ってくる人間が気持ち悪くて仕方がない。

多分彼は次に進んでいるでしょう。自分は傷ついたけど、振った相手からは「傷ついたことすらもお前は女性なんだからエンジニアの出会いが多いんだし耐えろ」という感じできつかったなとは。それ以外にも女性であると人として仲良くすることが難しいのであろうかと考えることが何件か起きてしまい、そこから性別への嫌悪感が生まれ始めた。

なのに、色んな所で「セキュリティ女子!」といわれ、女子……と思うにつれ、どんどんと自分の肉体と精神が離れていく。セキュリティの活動を行っている女性が少ないことは承知しているけれど、女子とくくられることで、更に希少性みたいなそういうジャッジをされて変な人が寄ってくるのではないかと思う。

なぜ好きなことをしているだけで知らん人からジャンル分けされてなきゃいけないんだ。美術館に行っても「美術館女子」、歴史スポットで勉強していても「歴史女子」、情報系の勉強会に行っても「○○女子」…私が男性だったらよかったのか?

時代遅れな考えを掘り起こせば「学ぶことや知ろうと思うことは男性の特権だったのに、それについて触れようとする女性は云々」ってことなのか?

○○女子というワードでくくられているジャンルでその○○女子にすり寄る男が現れて大変だというニュースを見ると、その懸念が現実になっているのだろうと思えて悲しい。なので、世間の○○女子という人は○○女子の当事者の悲しい気持ちを何とか理解していただけると嬉しい。

「○○女子というけれど自衛はお前が勝手にやってろ。変な男が来てもソレで傷ついたとしても全部自己責任」だと、好きなことをして生きるために覚悟を決めないといけないのがしんどい。

余談


余談1:天地人とは越後国出身の米沢藩の上杉家の家臣である直江兼続が主人公の大河ドラマ。関ケ原の直接要因となった直江状の送り主。直江状は直江兼続の頭の良さから出てくる皮肉がきいててすごい。

余談2:2011年から2016年までtwitterで開設していた。今でもGoogleアカウントで名残のあるYoshihiroという名前。鹿児島県在住の40代の既婚歴史好きのエンジニア男性のふりをしていた(※島津義弘だったら…みたいなことを考えた結果がこの設定である)。一人称が僕。男性性のアピールが難しかったため、架空の奥さんののろけを書くなどした絶妙におかしなアカウントである。Yoshihiroという人間としてかけていたので、割と性別関係なしに人とつながれていたのでとても楽しかった。ただこのアカウントは2016年の熊本地震の際に親から「人を心配させるな」と怒られたのでやめたが………

2020年6月12日金曜日

2年4か月ぶりの推しの供給についての話

私は小学4年生のころから小室哲哉さんの楽曲が好きで、最初は機動戦士ガンダム逆襲のシャア(逆シャア)の時に流れてくるBeyond The Timeを聞いて「なんて緻密な音楽を作っているのであろう」と思いTMN沼に落ちました。世界観の深さ、完成度の高さ、ボーカルのきれいな声、何もかもが自分の好みで一瞬でどっぷり。

そこからSelf Controlや1974、Get WildやresistanceやBe Togetherなどを聞き(特に好きな曲を列挙しただけでそれ以外もたくさん聞いている)、TRFに進出し…という具合で、本当にずっと小室哲哉さんの楽曲を聞くことで幸せに生きてきました。本当にいいんですよ。
(最初にTMNの沼に落ちた要因として、宇都宮隆さんの声が王子様系のイケボだったことが挙げられる)

昨日たまたまアンジャッシュの渡部さんの不倫&引退の話題がたくさん出ていて(とてもつらい)、その時に小室哲哉さんも不倫をされて引退したんだっけかと思いだしてお気持ちを呟いたのです。その当時、あまりにも引退がつらすぎて小室哲哉さんのことを少し忘れようとか思っていたわねとか考えながら検索したら、ちょうど小室哲哉さんの出られるラジオがたまたま昨日告知されていて「噂をすれば影が差す」って本当なんだなと思いました。

25時からだったので滅茶苦茶眠かったのですが、実況ツイートを消すためにも色んなことをまとめていこうと思います。「2年4か月ぶりに推しからの供給や!!!!!!」とテンション高めだった深夜のツイートで荒らしてしまったので………
(基本的にガンダムのオタクなので、グッズなどの供給があることの方が少ないとならされているから小室哲哉さんの供給が少なくても…なれているんですけど………うっ)

まず最初に出てきたのはファンも気になっていたこの2年間の話で、これは結構個人的に聞いていて胸が痛くなりました。報道が出てきた当初も介護疲れであろうという話がちょくちょく出ていて、彼はどうやって休んでいたのだろうという疑問が目の前に出てきては消えていく状況で、一人のファンとしては呆然とするしかなかった記憶があります。

それこそ小室哲哉さんって親の関係があまりよろしくなかったからこそ、母親のように頼ることができたKeikoさんと一緒になったわけですが、その関係性が病気で崩壊したと考えると堪えるものがあったのではないかと考えてしまいます。でも支えようと頑張っているのは、愛があるからこそだろうと思えて好きなんですけどね。それこそこの数年の記憶がないと言葉を出す推しの心境を慮ると、本当に苦しかったのではないかと思えてつらい………

そうした「曲を作れない」と思っていた(これは心的な問題も、耳の病気も関係している)小室哲哉さんが、今の新型コロナウイルスの影響で創作意欲がわいた話が聞けてそこは救いでした。新型コロナウイルスの影響って結構負の側面が大きくて本当に個人的にはしんどいものがあったんですが、小室哲哉さんに「激動の時代に何か自分の表現を残してみたい」と思わせてくれたのは本当にうれしい気持ちでいっぱいです。そして、「やっぱり音楽を作るのは楽しい」と思うことが再度できたことは本当にオタクとしてはうれしい話でした。

こうして彼のおかげでこの世界の状態は悪いことだけではないと思わせてくれるのはこの激動の意義を考えるうえでも、とても良い判断材料になるのです。思っていたことを表現してくれた推しに感謝を…。「オンライン時代でヒット曲を僕も作ってみたい。1千万人の人が自分の意志で自由に自分の曲を聞くことができる時代で、一つでいいからヒット曲を作りたい」という野心が生まれてくれたのは本当にファンとしては感涙ものです。

(地球で一番好きな人間である宮沢和史さんがコロナに触発されて作曲をしていたりなど、本当にコロナのおかげで供給があってその点はコロナに感謝しているところではあります。人の命を奪うのは苦しいのですが………)

それこそTVの時代の時は強制力の高さで流行りの音楽は無限に流され続けていたので分かりますけれど、今の時代はそうした強制力はなく聞きたい人の自由な意思で聞くことができる。だからこそ、この時代でヒット曲を作りたいという小室哲哉さんの向上心って本当に美しいと思うばかりです。自由な意思の大衆に選ばれたいと思う強さも感じられて好きなんですよね………

その流れだったかはわからないのですが小室哲哉さんの言葉で自分に響いた言葉が出ていたのでこれはメモしておきます(支離滅裂なメモをしていたけれど、寝て起きて昇華したので意訳を載せておきます。)

小室哲哉さん「僕がモノづくりをする人間だからかもしれないけど、僕は僕の作ったもので誰かに喜んでほしいと思う。だから自分が良かれと作ったモノでも誰かに聞いてもらって、その人がいいと思うものを追求したい。ずっと初心を忘れず新人作曲家の心で、人のアドバイスを参考に曲を磨いていこうと思っている。僕の曲は受け取ってもらう人のための音楽なんです。

自分も一応モノづくりにかかわる立場ではあるのですが、自分の技術を振りかざすだけのモノづくりを行うのではなく、あくまで受け取り手(一般の利用するユーザ側)の立場を考えて作ろうと思える姿勢は見習うところが多いと思っています。立場が違えど同じモノづくりの人間であることでその矜持はよく考えます。実際に自分が尊敬するエンジニアの方はそうした姿勢を持っている方が多く、小室哲哉さんもこうした姿勢で私はすごくうれしい気持ちになりました。(※余談1)

(作曲の時に月曜の明け方まで一人で作業をして完成させていったし、それから打ち合わせとかもあった話をしていて、寿命が縮まってしまう…としょんぼりしたけど、彼がこの2年間で少し休んでよかった。)

推しが尊敬できる人で良かった。むしろ、尊敬できる人じゃなきゃ推しではないのですが。ただあれですよ。完璧は求めていないのでやらかすときはやらかしますよね。人間だもの。

その流れから作曲についての話題になり、「言葉を表現したかった」話が出ていました。元々TMNの時代では小室みつ子さん(※たまたま名字が一致。小室哲哉さんの親戚ではない)の作詞で作曲が小室哲哉さんだったのですが、そういえばTRFや華原朋美さんなどの曲を見ていると作詞作曲がTetsuya Komuroなんですよね。作曲で表現をしているときに曲の積み重ねで考えていたことを表現できなかったからこそ表現したかったという推しの発言が尊すぎて語彙を失った。英語わからんけど当てはめたとか、接続詞を有効利用したいか素敵すぎる。だめだ尊い。その時に「全盛期に戻りたいですか?」と聞かれた小室哲哉さんは笑いながら以下を話していて、もう一度語彙を失いました。尊い。

小室哲哉さん「僕は過去には戻りたくないです。あんな忙しいことって人生に一度あればいいです。ふふふ。皮肉なものですけど、この期間でようやく久しぶりに休むことができました。ずっと働き詰めだったので、久しぶりに向き合うことができた気がします(※意訳)」

自分の尊敬している人は過去を振り返らないようにしている人が多いというか、過去にもどりたいと思わないところが本当に良い。そう、小室哲哉さんも含めて優れている人は今を大切にする傾向にあって本当に素敵でした。自分は苦手なのでそういう美しいところを真似ていきたいです(反省)

後この発言で思ったのは…休みがないと考えることができなかったり、過去を客観的に見ることも難しかったりするので、彼がこの2年4か月で自分や音楽と再度向き合う時間ができてよかったと思います。本当に必要な時間だったのでしょう。私は立派な人間ではないので引っ張りだこになることはないのですが、言葉や考えと向き合う時間は大切なものであると思ったのでこれからも意識していきたいと思わせてくる発言でした…推しの言葉って学びが多いなぁ…

音楽について小室哲哉さんは本当に様々なことを考えている印象があって、彼の言葉は考え抜いた結果生み出された言葉に感じて本当に胸を打つことが多いです。「昔の音楽は破壊的だったけれど、そういう流れが突き進むのかと思いきや今の音楽は丁寧な音楽になってきた」発言は彼が時代の流れを真剣に見たからこそ生まれたもので本当に面白い。

小室哲哉さん「僕の歌は固有名詞を出さないことで、普遍性を出そうとしているんです。ポケベル…とかで時代を感じさせないのもそうだし、渋谷で土地を限定させないようにしたりして、曲の伸びしろを聞いていただく方に伸ばしてほしいと思っています。

この感じはStill love herやん!!!!!!!とテンションが上がりました。季節は出るけど場所がわからんっての多くてよい…Still love herで目立つ固有名詞が「2階建てのバス」と「車のサンルーフ」くらいかな(「もしあのときが古いレンガの街並みに染まることができていたら…」の下りは妄想だもんな)。本当にラジオ自体が色々とStill love herを思い出すような言葉が多くて、本当にStill love herやんけ…と思っていたらラジオの最後に流れてきた音楽がStill love herで、小室哲哉さんに無事に殺されました(完)


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【余談】

余談1:長くなった…

今の情勢的に(個人的にもそれほど好きではない)蓮舫さんの「クラウド」発言を取り上げてはおもちゃにしているエンジニアたちの風潮に対して醜さを感じて嫌気がさしています。個人的に彼女はそれほど的外れな発言ではない印象を受けています。だからこそ、エンジニアが技術系の話で大喜利などの一般人をおもちゃにしていく発言をしていくことで、技術を権威だと思い込んでいるのをさらに増長させるような流れを作ることが嫌です。それでさらに一般人から技術的な壁ができてしまう気がして、そこでまた対立が起きてしまうのではないかと感じてしまいます。

技術って受け取り手である一般人の立場を考えてこそ評価されたり、良いものになったりすると思います。なのでトップの作曲家の方が違う立場であれど相手のことを考える技術の使い方をしていて、本当にうれしい気持ちになりました。本当はそういう風潮を作る人より圧倒的な技術力を持つことで、行動を見せて圧殺すれば理解していただけるんでしょうけれどね………

2020年6月9日火曜日

来年の1月まで精進します

タイトル通り。というのも、諸般の事情で自分の当初の予定では精神との兼ね合いで1年かけるつもりの修業が半年以内と宣告されてしまい、覚悟を決めることにしました。半年と考えるとプランニングを自分で組み立ててみると、当初の予定の1年では結構私生活で余裕を持たせるつもりでしたが、2分の1しかないので寝ても覚めても修業をし続ける覚悟で臨む必要があるように感じています。

あ、だけど基本的に何か用事があれば、普通に時間は作れるくらいのあれはするつもりです!はい!(それこそ機会があればオフ会したいし…)

言葉を知りながら(余談1)のつもりでしたが、猶予がなさそうなのでちょっと6月15日以降から腹をくくります。なぜ明日からとか今日からではないかというと、本の消化をしたいのです。昼休みに課題図書を設定したので、それを読む生活を行うつもりですけれど、今みたいな読書ジャンキーはしばらくお預けとします。1月以降にガンガン読みたいけど、それ以降になったら次は英語の勉強に全力を出しているかもしれないですけど…

(怠惰な社会人なのでそろそろ読書しながら京都巡りしたい。多分辛くなったらこの半年の中でスケジュールがアレになってもやる)

ただこの一年間、コロナ騒ぎであまり動けないでしょうし(京都に行くのが難しそうなのが嫌だね)、いい機会なのだと思っています。ただ、正直自分は怠惰な人間なので努力が好きではないといいますか、努力が苦手なのでSecHack365で燃え尽きていて半年休むつもりだったんだけどな(余談2)と思っていました。半年頑張った後は半年充電しないと半年頑張れないんですよね。メンタルの回復と、経験に対しての言語化のためには時間が必要なんです。特に最近の質の良いイベントとかだと。

でもね、今のままではいけないと思っているのです。というのも、私は今自分に自信がないでしょう。それって、「自分は何もできない」ということでわたしなんかと関わってくれて、色々と教えてくれたすべての恩師たちのご尽力を否定している言葉を吐いているのです。勿論その中にはSecHack365もそうだし、セキュキャンもそうだし、大学の先生方、恩師の先生、友人なども含めて否定しているような気がしています。

私は色んな人の好いと思ったものに対して極力関わろうと思い、その良いものは全力で挑戦することで、素敵だと思う人たちの良いを知り自分に取り入れようとしました。それはその人たちが自分に対して友好的であるからこそ教えてくれたものであるのに、その良いものを盗もうとした自分を否定するのはほかの人を否定することにもつながっているように思えるのです。それに最近数週間葛藤しています。

まあ、あなたは自信を持てと色んな人から言われますが、私が自信を持たないとその人たちを否定することになるのだろうと思うと、それって傲慢なことなのではないかと思えて仕方がないのです。色んな人の優しい言葉を「自分はそう思えない」と自分に対しての卑下ではなくて事実としてそう思っていた言葉がたくさんあります。それを自分ではない別の人を傷つけたり焦らせたりする要因の一つにこの態度があったのではないかとも思えて、この態度は足りないものを補って余裕を持った態度を演出せねばと思わせましたね。ありがとう某くん。

仮にこの半年で実力が付いたとしてもその人たちの叱咤激励のおかげであって、自分一人の力であると傲慢にならないように言葉を持ちながら技術との距離感をはかって生活するように努めようと思っています。

自分に自信がない理由は単純でコア技術がないのです。今日の昼に嫌なことに気づいたのですが、自分はセキュリティの専門の研究室から大学は卒業したけれど、そういっていいほど知識がなかったのです。(何とはかけませんけれど)

半年で胸をはることのできるくらいの実力を身に着けられるか今はわからないのですが、胸をはることのできる実力をつけないと、そろそろ自分はこの自信のなさで周りの人たちの今までのご恩や優しい言葉を否定していく傲慢な人生を歩んで、ただでさえない人望を削っていくのだろうなと見えました。それがなんだか寂しくなってしまったので、1年は努力は嫌いなんですけれど精進しようと思います。

てかそうだよ、ある日空から米津玄師さんが降ってきたと仮定して、自信がない僕がアプローチできるわけねえだろ。自信持てよ。ってことで、まあ仮にそうしたいい出会いがあったとしても自分に自信のない人間が選ばれるはずがないのでやっていきやな!(煩悩がないと努力できないので…)

【余談】

余談1:言葉を学びながらと考えると自分は言葉が足りないし、それこそ実は今猛烈な言葉のスランプで、このブログ以外に表に出していない小説を10つ並行して書いているのですが、ここ数週間それも進まなくて何も書けなくなっています。言葉を知らないとと思うんですが、言葉が思いつかなくて、あと表現もできなくなってきています。葛藤が凄くて。

余談2:セキュリティキャンプ後半年考え続けて自分で答えを出すのに半年かけた

2020年6月8日月曜日

自分を客観的に見るのが難しい話

自分を客観的に見ることはできるかと言われるとおそらく誰しもが無理なのだと思う。それは私もそうなのである。

自分のことを「怠惰で努力のできない意識が低く教養もなければ技術もない人間」だと思っている。数年前からずっとそう自己評価している。自分のことで強いて言える良さは「考える力」があることくらいである。それもまだ良さというには未熟であることが、思索駆動の人たちを見ていて思った。

ただ、自分が他人からどう見られているのか実はあまりよくわかっていない。ある人を焦らせてしまった。自分は特にその人を焦らせたいと思っていたわけではない。その人に対しては尊敬の念を持っているし、本当にすごい人だとこちらが見ていて焦るくらいだ。

ただ、自分は…自分で言うのもおかしい話だが何につけてもインプット量がエグい。おそらく並の20代の方では太刀打ちできないであろう量のインプットをここ数年し続けている。内容としては低レベルなインプットであるかもしれないが、本当に毎日のようにインプットし続けているので、牛歩でも前に進み続けている。苦手すぎる英文も最近は少しずつ読めるようになってきたので努力が報われ始めている。しかし、最近の周りの人間は並の20代ではない(断言)ので、彼らと比べて自分は少なすぎるインプット量だと焦っているのもまた事実である。結果としては彼らと肩を並べるにはまだ能力が全然足りていない。

このインプットは習慣的にずっとし続けているし、私の性格的には今後もそうすると思う。誰かがそれは意味がないと言うものであったとしても、私は全力でインプットする。何に対しても。それが給料に反映しないオタ活でもなんでも。

そういう姿は人を焦らせるのだろうか。自分はいつも焦っている。焦っていることで周りに対して気を遣わせていることにも申し訳ないと思うくらい、自分はいつも焦っている。そんな自分が他人を焦らせる日が来るとは思わなかった。

そんな自分が嫌になる。

自分に他人を焦らせる価値や姿勢などないと思うが、ただ自分を見ることで焦るか否かは受け取り手次第だろう。そうして本当に申し訳なくなってしまって、ただただ悲しくなっている。

話を戻すと、自分はなんだろうとわからなくなるし、自分の客観的なイメージに対してもわからないと思う。自分の姿は他人から見るとなんなのだろう。愚かだと思われていると思っていた。事実として社会人になってからも、そう言われたことがある。だから自分は愚かだと思われているし、誰かの迷惑しかかけられないため生きている価値があるのかと悩み続けていた。

本当に会社とコミュニティには恵まれているが、自分自身は何も持っていない人間だと自覚していて、何かを持ちたいと喘ぐだけの怠惰な人間だと思っているし、事実そうだと考えている。なのに人を焦らせて苦しめたのではないかと。

結局自分は他者からどう見られていたのだろう。

結論がなくてグダグダしていて申し訳ないのだけど、人を焦らせる要因に「焦っている姿」はあるのかもしれない。よく言えば「スピード感のあるもの」は、嫌な見方をすれば「焦りのあるもの」に見えるだろう。わたしは焦りのあるものであるが、他者から見ればスピード感があると見えるかもしれない。それも、育ちの良いような見方の良い人からしたら、いい見方をしてくれるので私に対してかなりスピード感を感じてしまう何かに見えることもあるかもしれない。

余裕のある演出をしなければ、人に対して余計な部分で余裕をなくすことにつながるようだ。多分焦らせたのは自分の余裕のなさから相手を巻き込んだのだろう。自分の行いに対して反省をしつつ、修養して余裕を持って行きたいと思う。

2020年6月6日土曜日

別れ話と恋愛について

長引くかと思っていた病院が案外早く終わったため、帰りつつ歩きながらよい夜景のデートスポットになりそうな場所を見つけた。ほくほくと夜景を楽しみながらTwitterのTLで加速していた恋愛についての思考をしていたら、目の前でお若いカップルが別れ話を20分くらい繰り広げ始めた。不慮の事故である。

綺麗な夜景の図

別れを切り出す男の意見を聞く限りであるが、「おしとやかで可愛らしいかと思ったら、理想と全然違うため対象と別れたい」らしい。そこは理想と違うため別れたい気持ちがわからなくもないし自由だと思うが、どうしても微妙なものを見る気持ちになってしまう。存在を認知されず立ち上がることすらも遠慮している陰キャは「なんだかな」とまずは思った。

そもそも、こうした「相手に対して自分の理想を押し付ける行為」は自己愛でしかない。だからこそこの男性は対象に対して自己愛を押し付けながらも、この自己愛が報われるのは難しいと感じて別れたいと思っているのだろう。合理的な判断であると思う。おしとやかで可愛らしい人は甲斐性のある人と付き合うような印象を受けるため、理想をただ押し付ける彼にそうした甲斐性があるのかは疑問であるが、是非ともその理想をもぎ取って欲しいと観察者は思う。それに対して私は関係がないので。

この別れ話により「自己愛を押し付ける行為で双方が合意した結果付き合うと、自己愛の押し付けにより別れ話が生まれる」という好意を抱く上での個人的仮説が検証されていき、それが真になっている感じがしていった。ただこれは仮説検証のためのソースとしては1つのデータなだけだし、その人たちの人生をこの時の別れ話の言葉以外は何も知らないため、絶対的に正しいとは言えない。

もしかしたらハードルは高いかもしれないけれど、私は好きな相手のそのままを好きになれる関係性になると幸せになれるのではないかと思う。だから本当は妥協した結果の人と自己愛を押し付け合うことで理想に持っていくような付き合いより、自分を変えて理想的な相手と付き合う方が良いのではないかと思える。

例えば、その人に対して好きなものを 自分と一緒に行ってもらう ことでプラスすることはできるかもしれない。だけど、その人の人間性から自分の気に入らないものをマイナスにすることは難しいと思う。その行い自体はその人を認めているのではなくて、自己愛を押し付けてるだけに感じてしまう。道徳として間違っていることであれば指摘した方がその人のためになるし良いけれど、それ以外の個性の部分はその人の個性であるので、うまく共存をした方がその人との人付き合いとしてはよいものなのではないだろうか。

そういうものではないかと思うと、自分にとっては難しいものに感じてしまう。

対話ができたら、双方ともに付き合う上では1番幸せなんじゃないかとは思うが、この幸せか否かについては私の感性でしかない。対話について色々と考えてみるとハードルというか理想が高いのかもしれないしね…

今でも一応、人として好きだと思うことはあるけれど、私の感性でその人を好きだとして、自分がこの人に対して好意を抱かれるような人間ではないだろうと考えることがある。距離を近づけるために自己愛を押し付けた方が有利なこともあるが、それが果たして相手のためになるのか。

そうして考えるにつれて、恋愛はさらに難しく感じられる。

そうして別れ話をしていたカップルは私の近くから離れていった。私はカップルが去ったことで安心し、この恋愛に対しての思考を終えてから駅に向かっていたところ、二組のキスをしてる別れ話とは別のカップルのお邪魔をしてしまった(完)

(何だかとてもいたたまれなくて、人のいない影のところから帰ろうと思ったら、みんなそういうところでキスしてるんだもん!)

2020年6月5日金曜日

期待と重圧

よく誰かが誰かに対して期待をする現象を見る。例えば、自分に対して誰かが期待をしてくれるときとか、トップを目指す人に期待をするファンとか。天ヶ瀬冬馬君へすさまじい期待をしている自分の姿はまさしく今回の話の主軸ともいえるかもしれない。

期待を受ける側としては、期待はありがたいことではあるけれど、同時にその人に対して重圧を強いられているような感じがして、それがとても自分が相手に与えるものとしては大きすぎるように感じてしまう。もちろん、そう考えるのは自分だけかもしれないし、考えすぎであるとは思う。健全な期待と、不健全な期待があるような感じがして、その差についてオタクとして推しにどう期待をかけた方が良いかとよく考える。

期待をかけるとは、その期待をする側の願望に過ぎなくて、期待をされている側はそういった期待の部分を意識していないこともあるのではないかと考えることがある。推しが求めていた応援と違うベクトルで期待をして、激しく推しの精神を追い詰めてしまうような、そういった期待の大きさってあるような感じがする。それが私は他人からされるのも怖いけれど、他人にしてしまうことに対しても怖いと思う。

期待をかけられすぎると重圧がひどくなる。

推しが素晴らしい人間であり、結果を残している人間である。そして彼はトップアイドルになる実力を有している。これは素晴らしいことであるが、当たり前のようにこれ以上の期待をかけすぎて「天ヶ瀬冬馬くんに(任意のhoge)の記録を樹立してほしい(ex:BNFでグラミー賞を取ってくれ)」とかもし仮にその実力がある人間であったとしても、こういう期待値の高い期待をされると苦しくないかと考える。

こうしたファンの起こす無自覚で無意識な期待は、ありがたいことであろうけれど同時に今以上にストイックにさせてしまい、推しに無理をさせることもあるのではないかと危惧する。無理をしている人間は実力があったとしても、不調に陥りやすいメンタルになるのではないかと自分は過度な心配をしてしまう。

こう変な心配ごとを考えるようになったきっかけがある。

かつて、私の弟が父方の親戚からとても期待をされていた。今も十分期待をされている人であるし、そのたびに兄弟である自分は比較をされ続け、親戚から劣っているといわれるたびに彼に対して憎んだことがあった。しかし、いざ自分がある1件で彼の立場になったときに気づいた。期待をされるというのは、自分の求めていない期待であると、重圧が激しくなるということを。

期待をするとき、その期待に応えた姿に対して自慢をしたいと思うがためにかけるのであったら、それはただの重しのように感じる。健全な思いの期待と、自分には何もないからその人をアクセサリーのように自慢するための期待には似たようなものに見えて、現実的には全然別のものである。応援しているときの言葉のベクトルが、少しその期待をしている人間に対して欲のあるというか、その相手の心を考えていない言葉が出てきてしまうこともある。

「自慢のための期待なのか?」

期待は表裏一体に感じる。求めている期待であれば、その期待は大きな自信につながるであろう。ただ、よこしまな期待や、求めていない期待であるとき、期待をかけられている立場の人間は苦しくてたまらなくなる。それを私は何も知らなかった。

○○社に子供が入った俺凄いとSNSに記載するような…自分が親のアクセサリーのようなものであろうと気づいたとき、その期待とはいったい何であろうかと考え始めた。そして、期待のかけ方に対して考えることが多くなった。

弟が結局父方の親戚から嫌な期待をされていた事実に気づいたとき、私が弟に憎んだ気持ちに恥じて、それから弟に対して激しい同情をした。そして、怨んでいたことに対して愚かであったと反省し、弟に対して申し訳なくなった。

それから天ヶ瀬冬馬君を推すときに結構考える。「彼はトップアイドルになりたいというし、実際にそうした行動を行っているが、果たして純粋に夢を追いかけている彼を推すとき、彼の重圧になるような期待のかけ方をしていないであろうか」と。

例えば、自分がトップオタクだから彼から見返りがあるのはしかるべき、、、古参のファンだから彼を成長させたのだ、、、というような自己愛で汚いマーブル色になっている忌々しい言葉を吐き出し、それを押し付けることは果たしてオタクとして美しいのだろうか。その期待のかけ方は彼をつぶさないだろうかと。

もちろん、天ヶ瀬冬馬君は二次元の人間だから、そんなことを考える必要はないだろう。ただ、この精神的な距離感は学生時代に得ることができなかったからこそ、ここでつかんでおく必要がある。例えば自分に家族ができた場合、相手に対してや子供に対してそのような自己愛でまみれた言葉を与えて重圧をかけて、本来のその人たちの良さをつぶしたり、つらい思いをさせたりすることは真の意味で期待をしているのかどうか。客観的に自分を見ることができなかったら、他者を不幸にさせるだけに過ぎない。自分が不幸なのは自己責任でしかないけれど、他人を不幸にするのはきれいに言葉を書けないがとても悲しいことだと思う。

ただ自分は今まで自己愛にまみれた期待を見続けていたし、それによって育ってきてしまったのである。幼いころの意識付けは一生残るともいうのが怖い。この自己愛を自分が好きだと思う人間たちに行うのであれば、自分の好きとは何であろうか、期待して応援しているつもりのこの気持ちとは何であろうかと自分に言い聞かせないとどうしてもいやな応援の仕方をしそうで、いつも自分と対話を行う。

その相手のことを思う言葉をかけるためにこうして反省し続けなければ、自分の感性では美しいと思える応援をすることができない自分に恥ずかしく思うが、いやな行いを今は行わないように内省できているのであるからまだマシかもしれない。

嫌な期待のされ方を受けている人間に対して、敬意を表する。私であればつぶれてしまう。

2020年6月4日木曜日

変わっていく姿を求められる人と変わらない姿を求められる人

今回この記事においての定義づけとして以下のような言葉の使い方を行う。


  • 成長して変わり続ける→アイドル
  • 絶えず安定感のあるものを求められる→王者

どちらも死ぬほど努力することには変わりない。

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推しはふたパターン存在しているように見え、そしてどちらも努力の末輝いている存在であることがわかる。例えば、トップを目指し成長し続けて変わり続けるアイドル性のある人、もう一つは絶対的な実力からくる安定感のあるものを求められる王者性。

アイドル性も王者性も実際軸としては同じように見える。成長して変わり続けているとしてもその人の軸が変わらなければ、安定感がある状態のままである。表面的に変わったとしても、内面的なものは変わらない。

例えば、西城秀樹さんは「アイドル性」が高いが「王者」である。絶えず成長をし続け変化をしているが、その実変化を求められていない人生を過ごしていたように見える。ファンの見方によってはどちらともとらえることができる。軸は変わらないが、見方の問題である。

後は…最近語彙が将棋が増えてきたので、精神年齢が小学生なので覚えたての言葉を使うが、個人的に今の藤井先生(※未来は恐らく違う)は「アイドル性」を求められていて、タイトルだとか、若いから云々とか成長に対しての期待をされ続けている。
今の羽生先生は「王者性」を求められていて、圧倒的貫録で他者をねじ伏せることを求められているように感じる(なんとなく彼には安定感のある勝利を求めているのではないかと思える)。おそらく過去はアイドル性を求められていたのではないだろうか。

うーん…(語彙力がないと反省しながら書く文字を考えている顔)

ある程度突き抜けたものに対しては王者性を求めるが、その王者性も真の意味では時代に合わせて変化しているため、「変化のないように見える変化」を求められているのである。

天井を掴み、その後努力をせずに怠惰な状態になれば、どんなに若い人であろうとも老害になり果てる。変わらないのは事実であろうが安定感のある王者の状態ではない。

王者は変わらないために変わり続けなければならないように第三者からは見える。変わらないために変わらない人は過去の人になる。

結局のところ、王者であろうとアイドルであろうと、その努力を見せているか否かはさておき、努力をした人たちが好かれる印象にある。天才というものは存在せず、怠惰であれば真の意味では天をつかめない。

個人的にはなんというか、努力量が圧倒的な人たちっていつ見てもすごい人にみえて、圧倒的に見えるんだけど、どうしても「天才」は存在していないなぁと思える。わたしとしては、他者を天才と表現するのは怠惰な人間が自分の努力不足に目を背けて、才能で片付けているだけに過ぎないように感じる。

2020年6月3日水曜日

精神的距離感の掴み方ってわかりにくいよな

飲み会があったときにある人から

「○○さんのことを大切にしますね!(※急に言われた」
「○○さんのこと好きなので、敬意がなくなるとかそういうことが起きることはないと思いますね!(※急に言われた」

といわれて、それはそれはコミュニケーション力がある人だと思っていたけど、それほどほめられることに対して慣れていない自分は「なんやこいつ…」となった。飲み会はコミュ障なので基本ニコニコ笑うだけで黙っている自分は、会話を振られないと発言しないので、マジで相手から急にこうした発言をされた(※その前後にそれほどネガティブな発言はしていない)。文脈的にも発言が唐突だったので、すごく訝しいものを見る目で本人に「ええ…(困惑)」と言ってしまった(実話)

これは本当に人の心に土足で踏み込んできて急にぶん殴られたときの感覚に似ている。

こうしたことを言われるとき、まずは相手方に他意がないことを留意するのであるが、自分はこうしたときに距離感とは難しいと思う。例えば先輩として大切にします!とか、好きだとか言われているのはわかるんだけど、余りにも言葉の距離感が近すぎて「何言ってんだこいつ」となる。

その人に対してかける言葉もなかったので「あ…陰キャなのでまぶしくて目が溶けそうです……」というしかできなかったが、「陰キャ好きなので大丈夫です!」と言われて「何が大丈夫なんですか?!」となった。

追記:さすがに酒の場のノリだと思うので、これ以降引っ張るつもりもないです。

こういった精神的に距離感の近い人と会話すると「うぎゃーーーーやめろ!!!!!」ってなる(他意がないことがわかるだけに余計にやめてほしい。)

純粋に友好的な意味として接してきている相手から褒められた時「うぎゃーーーやめろ」ってなることが多い。ただ、うぎゃーーーやめろはまだ社会性で対応できている。しかし、少し距離感のおかしい褒められ方をされるとダイレクトにくるため死ぬことがあり、その距離感がおかしい褒められ方をされたときに「お前、他意がないことは知っているが、それをこれ以上されるとちょろい人間は惚れるからやめろ」ということがある……

なんだろう…私には私なりの適切な距離感が合って、その距離感をひょいと超えられてくると、途端にどう見ればいいのかわからなくなってしまって死ぬやつです。最近、そういう案件多すぎて「友情とは…」「好意とは…」と考えることが多い。死ぬ。

個人的な適切な距離感は少しだけ距離があるのかもしれない。ビジネス的な意味で接している場合、距離感を近寄られると困るだけで終わるけど、自分がとりあえずビジネスを取っ払って会話しているときとかだと精神的なパーソナルスペースをじりじりと寄られてしまうとちょろいので秒で惚れるからやめてほしい……
(前述の人にはビジネスで接しているので「ええ…」しか思わなかったけれど…)

個人的に距離感がおかしいと思うだけで基本的には人間としての距離感としては適切なのかもしれない。わたしは友情というものを築くのが下手なので、自分個人を褒められると恥ずかしくなるだけで……

砂上の楼閣

私はかつて努力のやり方がわからなかった。高校時代は努力をしても認められず、努力が認められている高校の同級生たちを妬んでいた。彼らはその努力を認められていることを当たり前のように得意げで、私も努力しているのにどこが違うのかと嫉妬し続けていた。

実力がないと素直に認めることが苦しかったこともある。

高校生の当時は今よりも努力家で、努力をする時間も、熱意も今の10倍くらいはあったと思う。それなのに認められないという事実が、余りにも悔しくて、自分は努力をしても努力を認められずまた結果も出ないことに対して憤りすら感じているほどであった。

しかし、その気持ちに対して表現をする力もなかったから、ただ怒りを持つか、泣くことしかできなかった。イメージとして頭に浮かぶけれど、それを言葉で表現することができない葛藤もあった。それがさらに努力と自分に対してのハードルを上げていった。

そんな私は大学一年生の時に効率の良い努力の方法をすごく優秀な研究者から教えてもらった。その人曰く、「対外に認められさえすれば表面的な努力でも、他者は努力をした人であると認めてくる」という話であった。努力の評価軸を完全に他者に合わせる努力の方法がコスパが最も良いということである。

私は彼の発言を信じて、その方法を取り入れてみた。そうすると面白いことに彼の言ったことは真であった。

初めにそのやり方が認められたとき、世界ががらりと変わった。そして、自分のこの認識に対しての恐怖が凄くなる。努力も実力も認められない状況よりも深刻で、努力していなくても実力もなくても認められてしまう世界に落ちていたのである。

(実力は無なので、4年間ずっと関わり続けていたある教授から「○○さんは何もできないけど運はいいよね」と言われたとき、彼は自分をよく見ているなと安堵した。ちなみに彼は色んな技術的なものを真摯に教えてくれた人であるため、知らずに発言しているわけではない。)

自分は何もできていなくて、変わらないのに対外に認められてしまうと、自分は何も変わっていないのに周りの目が変わってしまう。その時に踏み込んではいけない領域に踏み込んでしまったのではないかと恐怖した。しかし、それに気づいたときには手遅れだった。

手遅れであると認められた瞬間から、同じ領域の人間と思われる人たちのように努力をしようと考え、そうして実践し続けていた。私は怠惰であるからこそ、努力をする人間に対しての敬意と憧れの念が強かったので、今考えると彼らと会話ができるネタが欲しかったのだと思う。そして、努力の方法を少しだけ、アドバイスをしてくれた研究者とは違う理解ができるようになってきた。

「対外的に認められるものを生み出すための過程の段階が世間一般で言うところの努力なのではないか。そこを皆が認めているのだろう」

例えば、実力に無相応なものを申し込んで落ちても落ちても苦しくない。理不尽にはもちろん怒るけど、落ちたことには怒らない。実力不足だというのは痛感していたから、落ちてもそれはそれでしかなかった。そう思えてさらに読書などを行い修養するようにしていく。そうして気づいたら某に通り、それから気づいたら修了していたし、そうしたらさらに周りの態度が努力をした人間であると認めてくるようになっている。

私はずっと怠惰で周りに流されて努力をしているだけに過ぎないと思えるため、何が努力をしている人間であるかと恐ろしく感じるばかりであった。どうしても自分は息を吸うように本を読むし、気になることは息を吸うように活動することができるが、それを努力とは認められないし、何なら趣味である。

「努力とは何か」

努力とは、実力がついてからこそ努力を認めてもよいのではないかと思えてしまう(他人であればもちろん努力した過程を評価したいし、そうであると認めるけれど)。しかし現状の自分はいつもの環境の周りの期待に対して実力が追い付いていない。努力をしても努力は努力であるし、実力のない状態の努力である私の努力を「努力」と認めてしまうと、そこで成長を終えてしまいそうな気がしてそれがどうしても怖い。

元々怠惰な人間である私は、今も今までも努力をしたくないと思っていたし、努力をしないためのコスパの好い選択肢が対外活動であったはずなのである。ただ、期待をされてしまうとそこから落とすことが怖い。結局今の努力って、他者からの目を気にしている自分が、怠惰で暮らすために行っている努力に過ぎないのではないかと思えてしまった。

こんな虚無な人間にやさしくしてくれる人が多くて、それがうれしいけれど同時に申し訳ない。

そうして自分の実力もないのに外堀が埋められてしまい、「努力」を認められている自分のその持っていない「実力」のいる場所が、どうも砂上の楼閣にそびえたつ玉座か何かに見える。いつどこでこの砂上の楼閣は崩れ去り、人々が自分に対して失望し、離れていくかと恐怖する。寂しがりであるから余計そうなのだろう。

期待、実力、努力がイコールになるようにせめて努力をしようと、少しだけ努力を行いながら生きているが、今も自分の恵まれた環境に対してありがたさと申し訳なさを抱えながら生きている。いつか…せめて5年以内には肩を並べてもよいと思えるくらいには実力をつけて、こうした劣等感とお別れできるようにしたいと思う。

2020年6月1日月曜日

2020年後半戦に行うこと、目標設定など

2020年も半分が過ぎてしまいました。新型コロナウイルスの影響で前半戦はほぼ無でしたけれど、その期間に平熱+2度くらい発熱して新型コロナウイルスの検査(PCRにしては結果が出るのが数時間で出たのですごく早かったな…)を受けて陰性だった(※喘息でした)り、個人的な事情が荒れてしまったり散々でしたけれどいつも通りの半年を過ごした印象です。

半年の総括ですが、まずは今年の中目標として立てていたSecHack365を修了したのでヨシ!(現場猫)と思うことにしました。

(最近、色んな人から「修了したという自信を持って…」と言われ過ぎてしまって、そう思おうと決意しました。ただ、私なんかが修了生を名乗るなど…とも思うので、慣れるようにしますね…)

それ以外ですとマジで何もな……いや、オンラインの勉強会でアウトプットを出すチャレンジ(※今年の大目標)を5回やろうとしていて、現状2回行いました。意外とペースとしては良いかもしれないです。

ただ、在宅勤務のせいというべきでしょうか、在宅勤務でやる気が底辺に落ちてしまっていて、早く出社したい気持ちが大きいです。私は音にかなり敏感なので、職場だと音がつらくて一時間に一度は立ち歩かないと精神的に参ってしまうことも多いです。働くには本当にいい職場ですけれど、自分の社会不適合ぶりが露呈しています。ただ、些細な音の問題は今のやる気が落ちる部屋の環境より100倍恵まれている気がするので、わたしは仕事は職場で行いたいです。

(それに在宅勤務を行っていると自分の無能さと面と向かわないといけないので、本当に苦しい気持ちでいっぱいです。もう少し技術をつけていこうと思います。)


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話を後半戦にします。

前半戦に自分の目標に対してあらかた解消しているので、後半戦は技術力をつけることをつけることに命をかけていこうねと目標設定をして、小規模の勉強会でアウトプットを3回出すことにします。

【アウトプットの予定(※変更の可能性あり)】

  • 8-9月に1回
  • 10-11月に1回
  • 12月に1回

現状はさくらインターネットさんのレンタルサーバを使い、既存のツールでハニーポットをいじることをやっています。ただ、これからはそれにプラスしてアリババクラウドくんで中国リージョンにも別のハニーポット(WebとIoT系;一応目星は立てている)を立てて土地柄で攻撃される方法は違わないかと個人的に分析したいと思っています。

それのための準備などを行いたいです。毎月全ハニポへの課金が1万円に収まればいいんですけど、なんというかその…難しいかしら……現状は500円のぬるま湯生活で暮らしているのでなんとなくその点の金銭感覚が弱々しい気がしてちょっと震えています。

(特にAlibaba cloudで身分証明書に使えるパスポートを名字変更の際に変え忘れて旧姓であり、その苗字を変更したいのですが色々とあって失敗続きであります。一時期申し込みができない状態であったのも記憶に新しいです。こちらは6/12に再チャレンジします…本当に事務手続きが死ぬほど苦手…)

構築が完了したらその構築の苦労話を、一件どこかの知り合いが運営している勉強会で投げようかと思っています(語りが下手くそ芸人)

苦労話の際、初学者のためのアウトプットを作って、わからない人への配慮のできる何かをやっていきたいとは思います。これはSecHack365の軸と同じような感じです。

(もともと「わからない」については、マイクロソフトの西脇さんの非技術者と技術者を結ぶ話をイメージした構想ではあります。)

10-11月のタイミングのものは、一応秋ごろに最終成果報告のできているはずのSecHack365を主軸にした何かにしますが、正直に誰になんのプレゼンをするのが適切かは疑問です。それこそ他の人たちの素晴らしい布教を見た方が10倍は有意義かもしれないなどと考えるところもあります。でも、ネタとしてはかなり良さそうなので、一応それで突っ込んでおくことにします。知り合いの勉強会あたりで。

12月は未定やね⭐︎
(何か進捗を出したいわね………)

読書に関してはこの半年は少しセーブする予定なので、青空文庫にある些細な文章も含めて最高でも100件で押さえろよお前(無理ゲー)

といっても今年買った本は全部読み切る予定です。人から勧められた本は消化しようね。
(自分から新規のものを作るのがよろしくないというだけの話です。)

そう言ってるけど、米津玄師の文章を買うだろうし、Newtonも買っちゃうだろうし、中国古典も読んじゃう気がするし、少女漫画みたいな小説を買って「クソ!!!!」と投げ飛ばしそうな気もします。

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最後に、この半年にかけての自分にしっかりとやれという意味での言葉を書いておきます。

メメント・モリ

死を思え…忘れてしまうと、空回りして目標に対して空を切りながらやっていくことになりそうなのが怖いのです。これからも修養していきましょう…


蛇足:時間ができたら、お勧めの本を紹介する記事をいずれ書いておこうと思います。

2020年5月31日日曜日

好きな人間に自信がないことに対して

私は人として好きな人間がTwitterにいて、その人のつぶやきを見るととても嬉しい気持ちになり、それから少し幸せな気持ちになる人がいます。言葉の思慮の深さと言いますか、彼のすごく考えて生まれたであろう葛藤からくる表現に私の美意識の中では非常に美しいと思うところが多いのです。本当に素敵だと思い、こころから慕っているといっても過言ではないでしょう。

ただ、その彼が何につけても自信がなさそうな状態であることに対して、私はすごくもどかしい気持ちになります。

私はその人自体に何か立派なものを求めているわけではなく、その人の言葉、その人が如何に葛藤したのかがわかるつぶやきに対して、敬意と好意を抱いています。その気持ちは彼が追い詰められているときからそうであると思うのですが、彼が何をつぶやいていたとしても自分の中では彼の言葉がとても素敵だと思うため、彼が何かと「自分には何もない」と言葉を出すことで自分は見ていて苦しい気持ちになります。

好きなものを好きな対象が否定しているときは、ファンとしては言葉にできないくらいいたたまれない状態になるようです。

素敵だと思う人が自分からすれば素敵だと思う部分に対して、劣等感を抱いている状態にひどく悲しい気持ちであることがわかりました。何に対して苦しんでいるのか、何に対して辛くなっているのか私にはわからないところが多いかもしれないです。ただ、どうしてもその人の劣等感に対して(おそらく自分が劣等感の塊であるからこそ、ではあると思うのですが)あなたはあなたのままで魅力的であるのに、どうしてそんなに苦しそうにしているのですかと言いたくなってしまいました。

ただ、自分も劣等感の塊であるからこそ、その劣等感で苦しんでいる様に対して声をかけることで解決するわけではないこともわかっています。劣等感とは自分の中でしか解決することができないし、その劣等感に対して向き合って乗り越えられるのもまたその人しかできない。私はその劣等感とそれに付随したネガティブな思考に対しての問題とぶつかっているからこそ、その人に対してその劣等感に対しては傍観者であることしかできないと思います。なぜならこの問題に対して私は無力なのです。

おデートスポットの話

大学時代から景色のいいスポットっていいよねと思っています。

元々関東出身なので(残念ながら連れて行く相手はいませんが)東京にはセンスの良いおデートスポットの候補を持っていて、おデートをする際はその中から相手の行きたいところを選ばせるようにしています。

(なお、開拓した際に参考にしたのは滅茶苦茶センスの良いInstagramのおじさんのおすすめスポットです。半分は私のセンスではない。)

関東でおすすめのおデートスポットでいうと結構そうした人がいないところがあるのですが、関西ではセンスのあるスポットを発掘してません。そういうスポットを増やしたいとは思うんですが、いかんせん一年目は某で休日開拓に行けず、二年目はコロナで開拓できていません。

関西だと強いて言うなら大阪城公園かな…お金を払えば大阪城の西の丸公園とか良いです。あそこは野鳥の会のご老人が多いけど…(趣味が老人のそれ)

関東民に勧めるおデートスポット一覧


昨年の暮れから今年の初めのタイミングでお台場の橋からスマホを落としているので、データがないものがあるため、写真データがない時はInstagramの投稿で補完してます。しばらく関東に帰ることができていない……

レインボーブリッジ


品川駅からバスが出ているので100円課金して乗りましょう。そして品川側から渡るんや。

歩ききってある時出てくるでーーんみたいな景色が良い。

閲覧者のおデートする方が歩くのに対して苦ではないのであれば、是非ともここは歩かせましょう💪

お台場行きたくなった時やコミケ終わりにお台場から品川に行く時とかここを歩きますわね…

レインボーブリッジ側からの東京大パノラマが見えます。とりあえず私は友人複数人を連れて行ったのですが、とても反応が良かった。

大学4年の当時、ここで一人で景色を見ながら写真付きで妄想を呟いたら、当時好きだった人から反応されて嬉しい!ってなった記憶があるな…(遠い目)

浜離宮恩賜庭園



人も少ないし、落ち着いているし、本当に素敵すぎるところです。野鳥もたくさんいるし野鳥を眺めるために行くのもよいかもしれない。

史跡としてもよくて、色々とみるところがたくさんあります。ただ、浜離宮自体は周りに何もないので、基本的に食事は食べてから行く方が良いと思います。

浜松町に芝離宮というところもあるのですが、そこもよいと思います。クリスマスに行ったときに野鳥の会のご老人しかいなかったぞ………

晴海埠頭



写真じゃよさが伝わらねえ…

晴海埠頭はTwitterでのバズを見ているので、今後増えたら嫌だとか思いつつ(ひどい)、ここはマジで人がいませんが景色は本当に綺麗です。海から東京を一望できるのですが交通の便が最悪すぎるため、クリスマスシーズンに訪れた際は2人しかいませんでした(実話)

予め東京駅で食事を済ませてから、飲み物を買っておきましょう。

ここも基本的にぼっちで行くことが多いのですが、たまにいるカップルとカメラマンが多いスポットだと思います。


世界貿易センタービル




個人的な夜景スポットでここを推します。好きです。

ここは課金して入る必要があるため、それほど人が多いわけではないのがみそです。

すごく夜景がきれいです。東京タワーやスカイツリーと比べると高さ的な意味合いでの見劣りがする部分はもちろん存在しているのですが、東京タワーと夜景の入ったところはきれいで好きです。

夜景好きなので、夜景かつ人の少ないところorコスパの良いところを探しがち……

コスパという観点で東京都庁もお勧めです。


無限に行きたくなるな…(´・ω・`)

門前仲町と隅田川




これは隅田川。

門仲はただのワシの推しの聖地なんですが、レトロな下町って感じで本当に良いのです。あとメトロしか門仲ルートをカバーしてないので、それほど人がいません。

クリスマス付近にぼっちで行きましたが、人がいませんでした。あ、可哀想な陰キャやな…

聖地の空気を吸うのは生きてるって感じで好きなんですよね。

門仲が飽きたわねってなればとりあえずスカイツリーを目指して歩くと最短ルートだと1時間20分かけて5.2キロで着きます。センスの良いところをふらつき隅田川経由にすると2時間くらい歩くかもですわね。わたしとか無限に歩きがちですが、歩くのは良いぞー。勧めておいてあれですがスカイツリーはそんなに好きじゃないけど…

五反田→大崎近郊の目黒川(冬季or春)




ここは桜が綺麗なスポットなのですが、冬季のイルミネーションのタイミングだとイルミネーションが綺麗です。

確かメトロとJRが通っていて交通の便は良いのに人が少ない。

イルミネーションは綺麗ですが、カップルがそれほどいないので戦場のようなイルミネーションを相手に連れて行かなくて済むと言う意味合いでお勧めです。あと夜桜でも戦争にならないし。

とりあえず適当に歩くのに良いです。

みなとみらいの臨海パーク近郊



これは近郊で撮った写真。その後知らん人から一眼で写真を撮ってくれと言われて撮ったのに、写真データを送ってとも言われず困惑した。なんだったんやアレ…

写真はないのですが夜景が綺麗(夜景が綺麗)

基本的にこういうスポットはぼっちで行きますが、無限にぼーっとできます。

人はランドマーク近郊より少なくて比較的落ち着いています。横浜自体が東京と比べると落ち着いているところではありますが。

大桟橋




写真センスがなさ過ぎて魅力がわからんな……

比較的人の少ない、みなとみらいを一望できるスポットです。基本的にここはみなとみらいから歩いていくと良いと思います。(歩くのが好きなので、選択肢が歩く以外持っていない。)

実は一度、大桟橋から有料席で花火大会に参加したことがあるのですが、行く相手がいなくて一人で見た記憶があります。親から独り身なのにボックス席のチケット貰ったねん。普通にカップルに囲まれながらボックス二人席で見ていたのですが、今考えるととても可哀そうだな。

番外編


これはそれほどお勧めしないけど好きなところです。とりあえず山。

大山




大山はいいぞ~~~~(神奈川の中央にある山)

久しぶりに行きたくなっている山の一つです。交通の便があれなので、実家に帰省した時にホテル取っていこうかな……(多分早めに行けば帰れなくもないとは思う)

ここは豆腐がおいしいです。豆腐は湯がいて塩で食べるのがいいんやねってことを伝えてくれた山ですわね。基本的に自然が好きなので山も好きなので、山の話が多くなってしまうry

筑波山



景色がものすごく良かった気がする。

おわり\(^o^)/オワタ

さて、こんなところですが、趣味の土地にはご老人が多く、わしのセンスはご老人なのであろうかと若干心配になるチョイスですが、人を連れていくと良いと思います。私はもうあきらめているので、他の人たちは行ってほしい……

おすすめということもあり自分の好きなスポットなので、もしかしたらたまに私とエンカウントするかもしれないですが、気づかなかったふりをするので安心してください(?)